第03話 天才児楽霆と太守の宴
大幻奏が終わると、幻奏師たちは太守の館の宴に招かれた。
裏方雑用を勤めた楽院生にも、太守凪刀の計らいでねぎらいの馳走が手配され、幻奏大楽院に届けられていた。
老師や独奏役はもちろんのこと、大幻楼の一階で伴奏役を務めた年若い楽院生にいたるまで宴の広間に通され、大勢の客たちとともに、神仙招来の宴席を楽しんでいる。
ほとんどの幻奏師と楽院生が、幻奏琴をはじめとする荷物を助手や雑用にまかせ、幻奏大楽院へと運ばせた。持ってきた少数の者も、控えの間に預けている。
楽霆だけは、小さな背に幻奏琴の包みを背負ったまま、卓から卓を物色していた。
育ち盛りだ、大幻奏のために夕餉は軽く腹ふさぎの茶と点心を配られ、大幻楼でそそくさと詰めこんだだけだったから、腹はぺこぺこだった。
きらびやかな宴に戸惑う必要もない。太守の館には、師匠の銀洞をはじめとする大楽院老師や導師とともに何度も招かれ、折々に幻奏を披露してきたのだ。
それでも、今夜の宴は規模が違っていた。宴の広間を東西南北に分けて卓を集め、青龍白虎朱雀玄武の趣向を凝らした料理が並ぶ四神席だ。
青龍卓にはとりどりの粥や湯、麺料理。真っ青な布を敷き、絵皿を並べ、瑞々しい野菜や、魚を使った料理を美しく盛っている。飾り切りや冷菜が、竜の群れをかたどり、天を舞っているようだ。冷たい甜品もある。
白虎卓には牛や豚の料理。白地に黒の虎縞に仕立てた毛皮を敷き、金の皿が並ぶ。炒め物や揚げ物、小麦を練って焼いた餅の類や鹹味の点心が豪快に盛りつけられている。
熱法にて湯気を立てるせいろ、油を沸かした鍋で、出来立てが次々と供される。甜品も蒸し菓子や揚げ菓子だ。
朱雀卓には鶏やアヒルや鶉の料理。真っ赤に燃える炉が用意され、鳥を丸焼きにしている。鉄板にも食材をならべ、薬種入りの酒をかけて火をつける。色鮮やかな炎に歓声があがる。
甜品は、卵をつかった蛋塔や、翼を広げた形の酥、赤い蜜が絡む山林檎の酥など、小麦を練って焼きあげた菓子が並ぶ。
玄武卓は黒鉄作りで、亀の形の巨大な土鍋が並ぶ。具だくさんの炊込み飯や白飯が熱々の香りを放ち、蛇にちなんだ鰻の料理と、鰻に見立てた豆腐の料理が添えられている。豆腐や野菜の煮込み、米飯に合う濃い味の菜肴、とりどりの酒や酒肴。甜品は飴かけの甘薯や胡桃、団子や甜湯、そして月餅だ。
客は卓から卓へと自由に移動し、さまざまな料理を味わえる。
ひととおり確認すると、楽霆は迷わず白虎卓に向かった。
顔見知りの召使が心得たようすで、楽霆の好物を皿に盛ってくれる。
茶色の紙で綺麗に包んだような春巻は皮がパリパリ香ばしく、いくつでも食べられる。むっちりふかふかの包子の中身は味の濃い甘辛肉餡、揚げ麺包の中身は火腿と乾酪だ。
遠慮なくお代わりしていると、後ろでわざとらしい忍び笑いが起こった。
聞こえないふりをしたが、次は聞こえよがしにいつまでも田舎者だの、恥というものが無いだの、がっついてみっともないだの、餓えた野良犬みたいだの、あらゆる侮蔑が楽しげにささやきかわされた。
楽霆は好きな物を好きなだけ食い続けた。何か間違えたのかと思ったのは昔の話だ。
食べなければ食べないで、肩身が狭くて食べるどころではないの、喉が通らないの、どうやって食べるのかも知らないんだろうだの、箸がまともに使えないんだろうだの、ますます図に乗って言い続けるのだ。
萌黄色の晴れ着をまとった楽院生らは、みな楽霆よりも少し年上で、中には二十歳近い者もいる。みな楽霆と違って頬も髪も艶々として、体中に滋養が行き渡っている。
幻奏大楽院に入るには高額の学費が必要だから、楽院生は裕福な家の出身者が多い。
教養として嗜む音曲として、幻奏は最も格付けが高い。宴などで披露すればひときわ大きな顔ができる。婚姻の箔づけになるため、女子も習いに来る。
大楽院では、幻奏以外にもさまざまな授業があり、礼儀作法や学問が身に着けられるため、裕福な子女の学び舎としての人気もあった。
金はあっても弦才に乏しい一部の連中は、学費をなんとか工面して入ってきた者や、地元の後援者に支援してもらった者、つまり才能はあるが金のない者たちを、折りあらばいたぶり、弱らせてあざ笑っていた。
才だけは恵まれたはずの者がぶざまに力を落とし、あとがないのに結果が出せず焦燥に狂う。その過程が、彼らのちょっとした娯楽だった。
楽霆は遠く離れた北西の僻地の出身だ。元・大楽院幻奏師の推薦を受け、銀洞老師がみずから長い旅をして確かめ、連れて帰った稀有な才能の持ち主だった。
学費は全額免除され、生活費も幻奏大楽院が負担する特別奨学生だった。
楽院生だった期間は短く、わずか十歳で弦名を授かり、正式な大楽院幻奏師となった。
弦名『楽霆』の霆の字は、稀代の天才幻奏師・瞬雷にちなんだものだ。楽霆の類まれな弦才は、伝説の瞬雷の再来ともささやかれていた。
それでも、一部連中の嘲笑は止まない。彼らには楽霆が得た地位や名誉は理解できても、楽霆が何を為しうるかが理解できない。理解する気も興味もない。
僻地の貧村から出てきて二年、所作の荒さは大して抜けず、見た目もまだまだ垢抜けない。年のわりに体が小さく、でも負けん気は人一倍強いから、何とか叩きのめして引きずり落とそうとする試みが後を絶たなかった。
(ばっかみてえ。それで潰れるとでも、思ってるのかよ)
薄切りの揚げ甘薯をバリバリかじりながら鼻で笑う。嘲笑も悪口も、物心ついてからずっと慣れっこだ。しかもここでは、物も手も足もまず飛んではこない。
幻奏は見た目より心身の力を使うから、日々の鍛錬だけで肉体労働より消耗が多いが、毎日食えて欲しいだけお代わりできて、肉に魚に、甘い菓子や果物まで食べられるのだ。
なおもひとかたまりに連れだって、楽霆を後ろからあざける楽院生らのもとに、侍女と思しき上品な衣装の女が静かに近づいてきた。
「姫様が、皆様には今少しお静かにしていただきたいとおおせです」
彼らにだけ聞こえるようにささやくと、裾をひるがえして去っていく。
彼らがぎょっとして振り向けば、大勢の侍女に囲まれた凛麗姫が、白虎卓のそばまでおいでになって、憂い顔でため息をつき、呆れたように扇を使っていた。
この楽院生たちは、彩竜市の富貴の家の生まれである。彩竜太守の愛娘である凛麗姫の機嫌を損ねれば、ひいては彩竜太守の機嫌を損ね、彼らの生家の不利益となる。
少なくとも彼らはそう考えたらしく、憎まれ口を慌てて閉ざした。それこそ喉も通らない様子で、もそもそと黙って、豪華な料理を口に運んで咀嚼する。
凛麗姫はそのすべてを小気味よさげに眺めると、楽霆に目配せして笑いかけた。
楽霆はむっと口を曲げ、顔を背け、アヒルの丸焼きを切り分けてくれる朱雀卓に向かった。凛麗姫の視線が背中に突き刺さるが、ぜったいに振り向かずに無視し続けた。
香草を添えたアヒルの丸焼きは、皮が照り照りの褐色で香ばしく、肉は汁気豊かで絶品だったが、楽霆もまた、もそもそと口に運ぶ。
凛麗姫にあんな風に助けてもらっても、嬉しくなかった。それなのに、凛麗姫にはそのことがぜったいに分からないのだ。
楽霆だって、凛麗姫が嫌いで冷たくするわけではない。はじめて凛麗姫を見たときは、こんなに綺麗で可愛い女の子が現世にいたのかと思ったものだ。
昔むかしの話。猟師の少年が、山奥の神仙郷に迷いこんだ。銀の鈴のような笑い声に誘われて木立の向こうをのぞくと、神仙の少女が、大熊猫や竜や虎の仔と毬遊びをしている。あまりの愛らしさに眺めていたら、気がつくと老人になっていたという。
楽霆もまた、しばらく馬鹿みたいにぼおっとしてしまい、凛麗姫にくすくすと笑われた。
幻奏を披露したときは、凛麗姫にじっと見られているだけで顔が火照り、自分ともあろうものが、あやうく弾き間違えてしまいそうになった。
凛麗姫はまた扇で口元をかくしてくすくす笑った。小生意気で可愛い笑顔だった。
だが、じきに分かった。凛麗姫はとってもいばりんぼうで、それが悪いと少しも思っていない。凛麗姫は生まれついてのお姫様で、それが悪いと少しも思っていない。
楽霆は、凛麗姫がいばるのが嫌だった。
それが自分を助けるためにするのでも、嫌だった。
楽霆は自分でも何が嫌なのかうまく説明することができなかったし、だからそのことを凛麗姫に分かってもらうこともできなかった。
食べ終わった皿を卓の召使に渡しながらこっそりと横目でうかがうと、凛麗姫は目を真っ赤にして楽霆を睨みつけていた。
目が合ってしまったが、楽霆は顔を背けて何も言わなかった。
やがてもう一度、今度目が合ったら何か言おうと決意して振り向くと、凛麗姫は、侍女たちに引きとめられながら、衣をひるがえして宴の間から出て行くところだった。
楽霆は肩を落とし、広間の隅の椅子に座った。これ以上食べる気など失せ果てていた。
「楽霆。これ、楽霆」
高圧的な女性の声に顔をあげると、大楽院導師のひとり、星嵐導師が直弟子たちに囲まれて帰り支度の構えだった。
「食事が済んだのなら、私と一緒に帰りなさい。お前のような子供が、このような宴にいつまでもいるものではありません」
星嵐導師は、世にも規律に厳しい才女で、不正や非道を憎むことはなはだしく、楽院生からひそかに女翔王と呼ばれて恐れられている。
翔王と違って見た目は麗しい。もう五十は過ぎているのに、若いだけでは到底勝てない女帝のような美貌を誇っている。
鋭い厳しい目でにらみつけられて、楽霆は内心縮みあがったが、悔しいので思いきりにらみかえした。
「まだ済んでません。ひと休みしたら甜品を食べます」
「甘い菓子など食べなくてよろしい! 一緒に帰りなさい」
「……銀洞老師と帰ります」
「そんな遅くまでここにいるつもりですか。つべこべ言わずに帰りなさい!」
星嵐導師の白い貌は、そら恐ろしいほどに完璧で、何の温かみも感じさせない。
三人の直弟子たちも、そろって暗い無表情で、何を考えているのかさっぱり分からない。彼らは人をあざけったりはしないが、笑ったりはしゃいだりも決してしない。そもそも喋らない。
「……結構です、星嵐導師。俺、全然大丈夫ですから」
星嵐導師と彼女の弟子と、一緒の車に乗りこんで帰れば、姿勢正しく席につき、一言の会話も交わされず、あるとすれば楽霆が、星嵐導師のお小言をいただくのみ。
大楽院までの道のりがどれだけ長く思えたことか。二度とごめんだった。
「そうですか。では、勝手におし」
星嵐導師は晴れ着の裾をひるがえすと、何事もなかったように去っていく。弟子たちの方は、すぐには彼女に従わず、無言のまま楽霆を凝視してきた。
「何だよ、文句あるのかよ! とっとと行っちまえ!」
楽霆は怒鳴り、顔をしかめて舌を出し、不気味な三人を追っ払ってやった。
だが、銀洞老師が引きあげるまでは、幻奏大楽院に帰れない。
楽霆は横目で師匠をうかがった。酒が大好きな銀洞老師は、このような宴では上機嫌で飲み続け、遅くまでなかなか帰ろうとしない。
酒肴が並ぶ玄武卓の前に陣取り、おそらくは知り合いでも何でもない客たちと大声で笑い合い、高価な珍しい酒をあれこれ飲み比べている。今夜はやけに大はしゃぎだ。
こうなると、食べるくらいしかすることがない。楽霆は甜品の卓に向かった。
青龍白虎朱雀玄武、どの卓にもさまざまな甘味が並んでいるが、集まった人びとの話題の中心は青龍卓だった。
これは池かと思うほど巨大な銀の大鉢に、透明な氷をぎっしりと詰めこみ、数え切れないほどの銀の小鉢を並べている。
大鉢の表面からは、絶えず白い煙のようなものが湧き出し、ときに中からもどっと溢れる。強力な冷法を仕込んだ品であることが察せられた。
これほどの量の氷菓子を供するというだけでもありえないのに、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と、月虹の七色、それぞれ異なる色と味わいの特別仕込みの品が七種類揃っている。
たしかに驚くべき贅沢さだったが、人びとの関心はそこにはなかった。
注目を集めているのは、卓の端に山と積み重ねられた空の小鉢。
それをさらに高く積みあげるべく、次々と氷菓子を平らげている美丈夫の姿だった。
この作品を読んでいただき、ありがとうございます。
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作者はこの宴では、白虎卓の粉系と朱雀卓の甜品に行くと思います。
読者様はどの卓がお好みですか?
次回は、この作品のタグに居る主要キャラが本格的に登場します。