第02話 大幻奏一番『武頼翔王』
日が暮れても、月虹祭の彩竜市が闇に沈むことはない。
月虹の時期、夜ごとに色を変える月は、常の白い満月よりもはるかに明るい。灯火がなくとも、危なげなく歩けるほどだ。
月のもとでの催しや遊興が祭りの本番だから、店屋は夜でも開いている。
さらに太守の采配で、市中の主な通りはもちろん、多くの街路に、松明や提燈、明法による灯りがともされ、無数の灯花に彩られていた。
赤月の輝きが高くのぼるにつれ、人びとの目は自然と赤い夜空へひきつけられていく。
辻で、広場で、橋の上で、屋台で買った食べ物を楽しみながら。
二階や三階の窓辺に集い、身をのりだしながら。
露台に席を用意し、酒食を並べ、談笑しながら。
人々は期待にざわめきながら、夜空を見あげ、待っていた。
すでに、準備は整えられていた。
太守の館に面した広場には、見あげるほど巨大な櫓が組み上げられている。
色とりどりに染めた布や、紙の造花で飾り立て、明法の灯りで真昼のように照らした特別な舞台だ。
広場には、大昔から石造りの円塔が高くそびえ、大幻楼と呼ばれている。この大幻楼を基礎に、五段重ねの露台をまわりに組みあげ、舞台にしつらえている。
すでに、大勢の晴れ着姿の老若男女が位置について座っていた。
全員が同じような琴に似た楽器を――幻奏琴を携えている。
彩竜市には、正式の幻奏師を育成する幻奏大楽院があり、舞台にいるのは大楽院幻奏師と、選ばれた楽院生たちだった。
一段目は、見習いを示す萌黄色の晴れ着姿ばかり、成人前の若者が多い。
二段目には、正式な幻奏師を示す翠緑の晴れ着が交じる。まだ年は若く、見習いたちを率いる役目だ。
三段目は、翠緑の晴れ着が七割を占め、年は青年から壮年くらいだ。人数が減る。
四段目はさらに少なく、みな翠緑の晴れ着の正式な幻奏師だ。
五階目にいるのは、たった十人。全員が翠緑の晴れ着で、生地も仕立てもひときわ上等、さらに特別の刺繍がほどこされている。
ほぼ年配者で、かなりの老齢者もいるなか、ひとりだけ、一段目にもいない小さな少年が、同じ晴れ着をまとい、一緒に座っていた。
小柄でやせているものの、十か十一か、そのぐらいにはなっているだろう。
もっさりとした髪は乾いた金色、やや色の濃い肌はそばかすだらけ、どこかの貧しい農村の出身のようだ。
だが、大きく目立つ水色の瞳には、強烈な光が宿り、稚なくとも顔つきは引き締まっている。もうすこし肥って頬に肉がつけば、目立って秀麗であろうと思わせる。
少年は気難しげに眉根をよせ、首をひねって背後の舞台に目を向けた。
てっぺんにしつらえられた特別の席には、最もきらびやかな深紅の晴れ着の男が位置についている。
遠目には誰にも分からないだろうが、すぐ足元の五段目からは、体中がぶざまなほど震えているのがよくわかる。置かれた幻奏琴に手も触れていない。
少年は軽く鼻を鳴らすと、自分の幻奏琴の弦にそっと触れ、注意深く調整を加えた。そのときだけ、目の光が和らぎ、口元に小さく笑みが浮かんだ。
広場に集まった人々が騒がしくなった。歓声があがる。
太守の館の露台に、彩竜太守御一家が姿を現わしたのだ。
太守凪刀は、立派な体格と穏やかそうな風貌を備えた四十ぐらいの知的な男だ。祭りのための晴れ着も、いっそ地味なくらいの趣味のいいものだった。
「赤は血の色はじまりの色。現世に生まれ出でた日、誰もがまとう色なれば、赤月とは命の輝き。めでたきかな、めでたきかな」
朗々と述べて、月に向かい手を重ねて一礼し、祈りを捧げる。太守を讃える大声があちこちで上がる。
続いて御一家も、一人ずつ、太守のそばに進み、月に向かって一礼する。
太守夫人は年若く、赤い唇は濃厚な色香をたたえている。
夫君に合わせ、色は抑えめな衣装であったが、地紋や刺繍や縁飾りなど、細かい部分で凝りに凝っており、宝物を服に仕立てたようにきらびやかだった。
夫人の次は、太守の息子と娘たちだ。
まだ子供ながら、それぞれに似合った色とりどりの豪華な晴れ着姿だが、最初に進み出た長女だけは、刺繍も飾りもない無地の晴れ着をまとっていた。
ふわり。だが袖と裙が、たっぷりと使った最高の絹が、なめらかな所作に応えて色鮮やかにひるがえる。
赤みがかった金の髪が、夜風に流れ、多数の灯りと、赤月の光に映えてきらめいた。
長女の凛麗姫は十一歳、将来はあらゆる賞賛の的になることを約束された、賢く美しく活発な少女だ。それを自分でもよく知っている。
太守凪刀は、目に入れても痛くないとばかりの笑顔を向けた。
続いて、いかにも幼子らしい所作で礼をするほかの弟妹には、穏やかな笑みで上品にうなずくだけだ。
かれらはみな、凛麗姫と年が離れている。今の彩竜太守夫人は、最初の妻を亡くした凪刀が、二度目に迎えた妻だった。
最初の妻を深く愛していた凪刀は、亡き妻そっくりの愛らしい長女を明らかにひいきし、溺愛しているのだった。
もうひとり、彼らの後ろに、凪刀よりも十歳ほど若く、同じ赤髪で、顔立ちもよく似た男がいる。
武官風の晴れ着だが、長すぎる髪を奇矯に結って、どこか崩れてだらしない。
太守凪刀の庶出の弟、彩竜守護職の快廉であった。彩竜市とその近隣の統治領の治安を守る役目を負ってはいるものの、市井の評判は非常に悪い。
それをわかっているのか、いないのか、何にも興味のない様子で、太守一家からは距離を置き、影のように控えていた。
「皆の者、待ちかねたであろう、私も待ちきれぬ! 赤月は天にのぼった、いまこそ大幻奏を捧げよう!」
太守は腕をあげ、人びとの笑いと歓呼に応えると、大幻楼の方にうなずいた。
深緑の晴れ着の老人が、深々と一礼をかえし、舞台へ向き直った。
老人の合図を受けた老若男女は、幻奏琴に手をかけいっせいに身構える。
激しき調べが沸き起った。
大勢の演奏がひとつになって、広場の大気を揺るがした。
舞台の芯に通った大幻楼が、赤く明滅し、光を放つ。
勇壮な曲が高まるにつれ、輝きは強くなり、陽炎のように湧きあがる。
塔全体が真っ赤な蝋燭と化した。だが、舞台にいる者たちは、熱さもまぶしさも感じない。
不思議な赤い輝きの中、最上段のひとりが主旋律を奏ではじめる。
夜空いっぱいに赤々と、深紅の馬を駆る真紅の鎧の武人が現れた。
炯々と輝く瞳。赤い岩をけずったような、恐ろしい鬼神の顔。
馬も大きな妖馬だ。片方だけの瞳は真っ赤に燃え、鼻息はまことの炎が噴き出している。
集まっていた人びとが歓声をあげた。
否、町中いたるところで夜空を見上げては待ちかねていた人々が、荒々しい幻の出現にいっせいに喝采し、彩竜市そのものを揺さぶった。
月虹祭七番大幻奏。
赤い夜空を狭しと躍る巨大な幻は、月虹祭の最大の呼び物であった。
夜ごとに色を変える月のもと、月の色にちなんでつくられた特別の大幻奏が奏でられ、夜空にくりひろげられるのだ。
鬼神めいた武人姿の幻奏は、大幻奏一番『武頼翔王』。
数百年前の群雄割拠の時代、名の知れた王のひとりである。
庶民の生まれで、武官ですらなく、身についた武芸を頼みに暮らすならず者同然の武頼の暮らしから、やがて仁徳に目覚め、乱れた世を正すため、おのが武術と、妖獣の血を引く愛馬を頼みにひとつの国をうちたてた英雄だ。
数々の善政を為した名君であったが、悪を憎み非道を断じて許さぬその心をあらわすため、自身の絵姿も像も、恐ろしさを求めて何度でも作り直させた。
よって翔王は見るも恐ろしく猛々しい姿にえがくほどよく、死して守護神となった翔王も喜んでくださり、より人びとをお護りくださるのだという。
赤月の輝きに、初日の華やぎに、これから七日にわたる祭りの凶威をはらう魔よけとしても、最初の大幻奏にふさわしい幻奏だった。
通常、ひとりが奏でる幻奏がつくりだす幻は、大きくても馬一頭ぐらいが精いっぱいだ。
それも幻奏大楽院で正式の技を学んだ幻奏師の話であって、我流、傍流で学んだ市井の幻奏士であればもっと小さく、人ひとりの姿を操ることも難しい。
だが、この広場にそびえる塔――大幻楼を通して、大勢の正式な大楽院幻奏師が伴奏で支援すれば、空を覆わんばかりの巨大な幻が、とりどりに動いて輝く幻の群れがつむぎだせるのだ。
舞台のてっぺんで主旋律を奏で、大幻奏を担う独奏役は、大楽院所属の幻奏師と決まっている。大楽院老師や、高位の幻奏師、いずれそうなるであろう優れた幻奏師が選ばれる。
大楽院幻奏師にとって最高の晴れ舞台であり、生涯誇りうる名誉だ。
本日、赤月の独奏役は、その名誉に初めてあずかった新進気鋭の若者だ。大役を担って必死に弦を繰るさまに、五段目でひとりだけ年端もいかぬあの少年が、冷たい視線を送っていた。
へったくそ。
と、少年――楽霆は内心思っていた。
晴れ舞台を、名誉を、あまりに意識しすぎて緊張し、指がこわばっている。
あせればあせるほど指は硬くなり、顔は蒼白となり、せっかくの晴れ着は汗まみれだ。
夜空に目を向ければ、勇猛な翔王の姿が時々ぎこちなく強張っている。
今はまだ、きらびやかな伴奏による火花や炎、低く響く伴奏による影のような姿の近衛、斬られ役の妖魔たちなどに紛れて分かりにくい。
だが、何か大きく弾き損じれば、明らかに幻奏は崩れるだろう。
五段目の高位幻奏師と老師たちが目を見かわす。
楽霆のとなりで、銀洞老師が小さく咳払いをした。ちらりと目配せも受けて、楽霆はしぶしぶと、だが内心はいそいそと師匠にうなずきを返した。
銀洞老師は、定まった伴奏とは微妙に異なる旋律を奏ではじめた。
合わせて楽霆は、みずからが担う伴奏旋律を少しずつ変えながら音を減らして抜けていく。
まもなく、銀洞老師の改変伴奏は、一人だけで自身と楽霆それぞれが担っていた幻奏を易々と支えた。
さすがだ、と楽霆は口元で笑う。
老いても器用な指が弦の上をするりと踊れば、影のような悪鬼の幻奏が即興で現れ、翔王のまわりを飛び回る。楽霆が主旋律に入りこむ乱れを覆い隠す。
呼吸を合わせて楽霆も旋律を切り替え、伴奏から主題へと飛びこんだ。
楽霆は三夜目、黄月の独奏役だが、実際には月虹祭七番大幻奏の独奏はすべて弾ける。
最大の難曲であり、最大の名誉である七夜目・紫月の大幻奏七番『輝竜天空』でさえ完璧に弾きこなせるのだ。
それでも独奏役としてはもっとも難度の低い、黄月の大幻奏におさまった。
十一歳の独奏役は史上最年少であり、それまでの記録を大いに塗り替えるものではあるのだが。
楽霆は、独奏役の不安定な『武頼翔王』に寄り添うと、骨組みになったつもりで太い演奏を響かせた。
独奏役は歯を食いしばったが、楽霆の支えを拒むことはできないようで、ぎりぎりと張りつめるように合わせてきた。
ふたりの演奏が重なりあうと、震えたり強張ったりしていた部分がぴたりと消えた。翔王の姿が、赤い夜空にくっきりと際立つ。炯々たる瞳が、妖馬の鼻息が、より活き活きと燃えたぎる。
明らかに観客が沸き返る。
楽霆はひたすら無心になって、最後まで独奏役の幻奏を支え続けた。背後の高みから降り注ぐ、独奏役の憎悪の視線を感じながら。
この作品を読んでいただき、ありがとうございます。




