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第01話 剣士空真、彩竜市に入る

 若き剣士は船べりにもたれ、河の流れを見つめたまま動かなかった。

 船長が何度声をかけても、濃茶の髪を夕風に揺らめかせるだけで返事をしない。

 長い前髪の下の紺青の瞳は、金色に煌めく水面ではなく、どこか別の時、別の場所を見ているのだった。


 船長はため息をついて若者に背をむけた。

 殺されても気づかないのではないかと見えるが、実際には水賊が船を襲わんとすれば、並みの用心棒十人を超える働きだった。

 まだ姿も見えず誰も気づかぬうちから無言で剣をとり、軽功(けいこう)にて船べりに立つと、奇襲のはずだった矢の雨をことごとく斬りはらい、水賊どもも片端から仕留めて見せたものだ。


 一見ほっそりとした体つきは、そのような武技に長けるとはとても思えない。

 袍も脚衣もすりきれて色あせ、髪を押さえる布も使い古した灰色だが、見た目のみすぼらしさに紛れた貌かたちの美しさはおどろくほどだ。

 年のころなら十七、八。精緻な人形のような目鼻立ちで、背の高い娘が危険を避けて男装をしているようにも見える。

 そう思いこんで手を出そうとした粗野な船客は、一瞬の早業で片腕をひねられ、はらわたが砕けそうな拳打を叩きこまれて、ほうほうの体で逃げだした。


 まっとうな時なら、言葉の端々から、数々の詩歌をそらんじていると察せられた。船子のひとりから笛を借りて、そこらの俗謡ではない音曲を披露したりもした。そこらの武頼(ぶらい)ではないのは明らかであった。


 やがて船は支流を抜け、彩竜市(さいりゅうし)へと向かう赤紗川(せきしゃがわ)の流れに入る。

 大小の荷船、小さな手漕ぎ舟、人がいっぱいに詰まった客船、鮮やかに彩色された金持ちの船、近隣のあらゆる船が、彩竜市の水門を目指していた。

 水門をくぐり、停泊の手続きを済ませ、城壁内の港に入ると、船長は若者に声をかけた。肩にも手をかけて揺さぶった。


空真(クーシン)、もう着いちまったよ。彩竜(さいりゅう)だ」


 若者はぼんやりと頭をあげ、藍色の目をまたたかせた。不意に瞳の焦点が合い、表情が引き締まる。


「彩竜? 何で彩竜? 俺、その前で降りるって言ったよな?」

「ああ、だからもちろん言ったよ、着いたってな。だけどお前さん、何べん声をかけても動かねえし揺すっても返事もしねえから、しょうがなしに出発したんだ」

「……いや、でも、別の場所でも……!」

「そのあとも、何度も声をかけたんだがな! どこでもいいから降ろしてやろうと思って。でもお前さんはまったく動かなかった。で、給金ふところに詰めこんで適当なとこ置いてかれるのとどっちがよかった?」

「すみません、給金下さい」


 空真はしおらしくなった。船を狙う水賊や、女を狙う無礼な手合いにはバネ仕掛けの罠みたいに反応するくせに、自分が物盗りに遭っても気づかないのだ。

 さすがに帯剣までは盗まれていないが、乗船したときからやけに身軽で、寄港のたびに持ち物が減っていった。


「ほれ、給金。彩竜までの護衛で計算してやったから持っていきな。あと預かっといた荷物」

「ありがとうございます……今日までお世話になりました! 俺みたいの雇ってくれて、ありがとうございました!」

 空真は深々と礼をして、給金の小袋を受け取った。


「それじゃ急ぐんで……失礼します!」

 無いも同然の旅荷物をつかみ、帯剣を背負い、船べりにあがると、空真は軽功にて港に飛び降りた。


「こら、水門から出ようとすんじゃねえ! 捕まんぞ!」

 船長が慌てる。水門は関門であり、船から船へと渡っての逆走は、関門破りの違法行為だ。

 門番役人が空真を睨みつけ、複数の兵士が動きかけたが、すぐにやめたので不問に処された。


 空真は港を見回した。この時期の彩竜から出ようとする船はほとんどない。今日の混雑を見越して、とっくの昔に出発している。

 遅れをとった船や、ここへ来て火急の用ができた船もなくはないが、門番たちは入ってくる船をさばくのに忙殺されて完璧に後回しだ。


「一番近い門は、港から出て左だ! 急げ!」

 船長が怒鳴る。空真はうなずき、感謝をこめて手を振ると、俊足を飛ばして港を抜け、市街へと入った。


 彩竜市は落日の()に輝いていた。古い石造りの建物と、新しい木や煉瓦でつくられた建物が入り混じり、体つきも訛りも服装も、目も髪もさまざまな人々でごったがえしている。


 石敷きの街路を踏み鳴らす足音、車輪の響き、荷車のきしみ、馬のいななき、牛の鳴き声、何よりたくさんの人々が口々に喋り叫ぶ声が入り混じり、ひとつの恐るべき活気のかたまり、とてつもない無形の存在と化している。


 簡素な屋根を組んだだけの出店が軒をならべ、甘いのからいのとりどりの料理や菓子、温かい酒や飲み物、冷たい氷菓子まであらゆる食べ物を売っている。

 甘からい味噌をつけた焼きむすびや、焦がし砂糖蜜を絡めた小麦の薄焼きの匂いをかぐと、空真の腹がどうしようもなく鳴った。


 それは誰でも同じらしく、祭りの食べ物は次から次へと売れていく。

 決して安価とはいえないものの、常ならば裕福な口にしか入らないものも――砂糖をふんだんに使った菓子や、製法に手のかかる氷菓子、まじりっけなしの白い粉や米を使った品も、多少張りこめば味わえるのだから、ここまできて財布の紐を締める者もいなかった。


 空真は足を止めず走り続けた。食い物に釣られている場合ではない。はやく彩竜から出なければ。

 赤紗川の水を飲み、泥臭いエビミミズをほじって腹を満たす夕餉で構わない。彩竜には留まっていられない。

 だが、ついに最初の声があがった。甲高く幼い子供の声だった。


 ――赤は血の色、はじまりの色!


 誰が言うと決まっているわけでもない。通りという通りにごった返している人々が、落日の輝きに染まる空を見上げながら、どこからか誰かが叫ぶのだ。


 ――赤は血の色、はじまりの色!

 また、ざわめきを貫いて声があがった。今度は野太い男の声だ。すでに気持ちよく酒に酔った響きがある。


 ――赤は血の色、はじまりの色!

 若い娘たちが声を揃えて叫び、最後は照れたように笑いに崩れる。


 ――赤は血の色、はじまりの色! 

 ――赤は血の色、はじまりの色!


 誰かが叫び、誰かが叫ぶ。叫びはしだいに重なり合い、互いに互いをかき消したかと思うと、またひとつひとつがはっきりと響き渡る。

 不意に奇妙な間が空いて、誰も叫ばないでいると、誰かがこれでもかという大声をはりあげ、それに負けじと対抗する声が次々とあがり、また重なり合ってかき消える。


 あらゆる高所に控えた鼓手たちが、いっせいに太鼓を叩きはじめた。

 城壁、門城、公共施設の屋根や露台。古い時代の物見楼、兵士の詰め所の屋根の上。

 胸の鼓動を思わせる連打が、彩竜市全体で沸き起こる。人々の血を駆り立てる。


 ――赤は血の色、はじまりの色!

 ――赤は血の色、はじまりの色!


 太鼓の拍子に導かれ、ばらばらだった多くの声が次第にひとつに重なり合った。

 いつのまにか大勢の人々が、声を揃えて力のかぎりに叫んでいた。


 ――赤は血の色、はじまりの色!

 

(……だめだ!)

 空真は音の海であえぎ、よろめいた。息が乱れて軽功が破れ、足がもつれて速度が落ちる。


 ――飛びちる血しぶき。

 ――彼はたわむれるように長い髪を舞わせ。

 ――白い頬を緋に染めて静かに笑う。


 両の瞳に灼きついた情景がよみがえる。そんなことがあったことも、そもそも自分が今どこで何をしているのかも、すべてを忘れて甘い過去を漂っていても、ここにいたら思い出してしまう。


 空真は息を切らし、人ごみをかきわけて進もうとした。巨大な鉄の城門はもう見えているのに、進んでも進んでも近づかない。

 門から入ってくる人の流れに押し戻されているのだが、朦朧とした空真にはそれすらも分からない。


 門扉の間を、射るような落日の輝きを一心に見つめる。

 あの門の向こうに行けばまた忘れられる。


「待って……」

 子供のような哀願は、多くの声にかき消される。


 ――赤は血の色、はじまりの色!

 ――赤は血の色、はじまりの色!


 太鼓の音がさらに速まる。空真の心臓と重なり合う。

 唱和するかけ声に押されるように、門扉がじわじわと閉まっていく。


 ――赤は血の色、はじまりの色!


 ひときわ高く、ひとつになった声とともに、巨大な門扉が完全に閉ざされた。

 鎖が回り、歯車が鳴り喚く。呪いのように交錯するかんぬきが次々にかかる。


 一瞬の静寂。

 歓声とともに花火があがった。耳が壊れそうな爆竹の音があちらこちらで炸裂する。

 日没と同時の封門によって、月虹祭(げっこうさい)がはじまったのだ。


 四年に一度、夜ごとに色を変える月のもと、七日七晩、彩竜市は外界より隔絶され、閉ざされた市内は宝物庫をぶちまけたような催しに満たされる。

 無数の幻奏(げんそう)、芝居、音曲、軽業師、妖しの手妻、演舞に剣舞、武芸大会、さまざまな競技。

 あらゆる極楽、ひそかな地獄、ひとつになって煮えたぎり、月虹(げっこう)のもとだけで許される夢が人々を呑みこむ七色の夜が。


 空真はよろめき、封じられた門扉に体をぶつけた。そのままずるずると座りこみ、力無いこぶしで扉をたたく。


 ――赤は血の色、はじまりの色!

 なおも楽しげに散在するかけ声を聞きながら、空真は門扉にもたれ、目を閉じた。


「ちがう。終わりの色だ」


 黒く塗られた鉄の門扉は、下に隠れた錆の匂いがした。

 粘つく乾いた血の匂いだった。

 この作品を読んでいただき、ありがとうございます。


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 この第01話は、書き出し祭り提出原稿とほぼ同じですが、二か所計3文字だけ変更されております。


 次の話では、一人目の天才が登場します。

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