異世界のガラス玉
異世界をご存知だろうか。
トラックに跳ねられたり、崖から足を滑らせたりといった何かの拍子で行ってしまう、あの異世界だ。
あれは不思議だ。
そもそも、異世界とはなんだろう。
平行世界とでもいえばいいのだろうか。
大体、なんでトラックにひかれたのに、五体満足で別世界に行っているのだろう。
疑問はたくさん残るが、私は異世界を信じている。
なぜかって?
理由は簡単。
私こと、森 春音は昔、異世界の一片を経験したことがあるからだ。
中学2年生の頃の私は、普通に学校に行って、普通に勉強して、普通に帰宅部の、どこにでもいる普通の女の子だった。
それを拾ったのは、もうすぐ冬休みが始まる、という時期の事だった。
「なにこれ?」
学校で友人と別れ、帰宅中の私はビー玉くらいの大きさの透き通った玉を拾った。
それはビー玉じゃないのか、という突っ込みがあるかもしれない。
けれど、残念ながらそれはただのビー玉なんかじゃなかった。
なぜなら、玉の表面には識別し難い文字がいくつも書いてあったから。
「これは、もしかして大発見かも!」
私は、先日歴史の授業で習った古代遺物を思い出していた。
その中の一つに、丸いガラスが連なった首飾りがあったのだ。
しかも、そこには(少なくとも私には)判別し難い文字が、ガラス玉に小さく彫られていたのだ。
まさにこれは、その一部ではないか。
と、当時の私は本気でそう思っていた。
「そうと決まれば、早速持って帰ってお母さんに見せてみよう」
私の母は古文の教師をしている。
私は意気揚々と自宅に帰り、母にガラス玉を見せた。
「春音。残念だけど、私はこんな文字知らないわ」
にべもなくそう言われた。
ならばと私は父の元へ行った。
父は外国語の教師だ。
ひょっとしたら、この不思議な文字は海外の文字なのでは、と思ったからだ。
「春音。残念だが、僕はこんな文字は知らない」
母と同じく、にべもなくそう言われてしまった。
「昔の文字でもない。外国の文字でもない。じゃあこれはいったいなんなの?」
困った私は、大学生の姉に相談してみることにした。
「それは、異世界の文字が書かれているのよ!」
姉はそう断言した。
その言葉には、少しの迷いもなかった。
「そんなまさか」
ファンタジーじゃあるまいし。
全くもって信用しない私にも、姉は全く動じなかった。
「だって、未知の文字が書いてあるガラス玉がそのへんに落ちてるなんて、普通ありえないわ」
「確かにそうだけど…」
「きっと、異世界からやって来た誰かが落としていったのよ!」
「(誰かって誰よ…)」
姉は、大学でお笑いサークルに入り、日夜お笑いを研究していた。
そのせいか、姉は若干独特の感性を持っている。
「そうと決まれば、さっそくこの玉の持ち主を探すわよ」
姉は椅子から立ち上がり、拳を握ってそんなことを言ってのけた。
「ええっ!そんなの無理だよお姉ちゃん!だって、そのへんの道端に落ちてたんだよ?名前だって書いてないし」
「甘いわね、我が妹。犯人は現場に戻るって言うでしょう?きっとこの玉が落ちていた場所に戻れば、落とし主が探しているはずよ」
そんな馬鹿な。と、私は思った。
そもそも、この玉のことだって、そこまで本気で凄いものだとは思っていない。
ただ、なんとなく古代遺物だったらいいなと思っただけだ。
「さあ、そうと決まれば出発よ春音。もしかしたら、もう落とし主が気づいて現場にいるかもしれない」
「えー!私も一緒に行くの?」
「当たり前よ!さあ急いで!」
「今帰ったばっかりなのに…」
姉に相談するんじゃなかった…と、私は心の中で後悔した。
「本当にこの辺りなの?」
私と姉は、先程私がガラス玉を拾った場所に来ていた。
そのガラス玉はというと、是非とも私に!と姉が言うので、姉の手の中に収まっている。
「うん。確かにこの辺りで拾ったよ。丁度、この郵便局の前で」
登下校時に、毎日必ず通る郵便局だ。
間違えるはずはなかった。
「おかしいわね…誰もいないなんて」
「やっぱりただのガラス玉だったんだよ」
その時の私は、夕方で寒くなってきたのもあり、早く帰りたかった。
「あの、すみません」
もう姉を置いて、一人で帰ってしまおうかと思ってきた頃、私達に声を掛ける人がいた。
「この辺りで、ガラス玉を見ませんでしたか?」
ガラス玉。
まさか本当に探し主が現れるとは思っていなくて、私は驚いた。
「えっ!あなたがガラス玉の持ち主ですか!?」
そう言ったのは姉の方だった。
声を掛けてきたのは、茶色のトレンチコートを着た、30代前半くらいの男性だった。
「と、いうことは…。やはり拾ってくれたのはあなた達でしたか。ありがとうございます」
「いえいえ。拾ったのはこの妹の方なんですよ」
何故か姉は得意げにガラス玉を手渡した。
「なんと、ありがとうございます」
そんな姉にも動じることなく、男性は笑顔で丁寧にお礼を言ってくれた。
「あ、いえいえ。それ程でも…」
そして、私はといえば動揺してしまい、変な返ししか出来なかった。
「では、私はこれで…」
男性は、ガラス玉をコートのポケットに仕舞うと、そのまま道を歩いて行った。
「落とし主は見つかって良かったけど、結局異世界の物ではなかったみたいだね」
私は冷えてしまった手を擦りながら言った。
なんにせよ、これで姉も満足して帰ってくれるだろう、と私は内心安堵していた。
「何言ってるの、春音。彼は確かに異世界の人間よ」
「そんなわけないじゃん。だってどうみてもあの人は普通の…あれ?」
私はふいにさっきの男性の発言を思い返した。
あの人、確か…。
やはり拾ってくれたのはあなた達でしたか。
「え、まさか…」
「普通、落とし物を拾った相手がどんな人かなんて分からないわよ」
「て、ことは…」
普通は分からないことが分かって。
謎の文字が書かれたガラス玉を探していて。
さっきの人は、まさか本当の異世界人…?
その後、私とお姉ちゃんは普通に自宅に帰って、私は普通に宿題をして、お風呂に入って、ご飯を食べて、夜は普通に寝た。
私はその後、姉にはその話をすることはなかったし、姉も特に何も言って来なかった。
そのうちに姉は、大学を卒業して芸人になるため上京し、私も高校進学を機に地元を離れた。
今はお互い家庭も持った。
たまに会えば話す事は、家族の話や仕事の話。
最近好きなアイドルや、面白い友達の話。
あの日の出来事を話すことは、おそらく永遠にないだろう。
だけど、私はふとした瞬間にあの時の事を思い出す。
大人になった今でも、私はあのガラス玉の文字と同じ文字を見たことは一度もない。




