96 受け入れる者
訪れる馬車を正面から待ち構えようとしていたナディアの手首を、リンドが掴んだ。
「こっちだ」
「え? あの」
「いいから来い」
ナディアはリンドに引っ張られるようにして地下に残された階段を下りていく。
「リンドさん、入院してたんじゃないんですか? まさか無断で抜け出してきたんですか?」
病院嫌いのリンドならばやりかねない気がしたが、手首を掴んでいるリンドの手はそこまで熱くはない。
「俺のことはいい、それよりもこの場をどう切り抜けるかだろう」
「昨日の今日なんですからゆっくり休んで無理しない方がいいですよ」
噛み合わない会話に、リンドはため息を吐き出した。
「……昨夜から婿の差し金で高価な薬を使われたり、よくわからん注射を打たれたりしたら、朝には熱もなく喉も痛くなくなっていた。店の様子を少し見に来ただけだ。お前がこの場を無事に切り抜けられたらちゃんと戻る」
ナディアはリンドの言葉を聞きながらニコニコと笑っていた。きちんと病院に戻って養生してくれるならそれでいいし、何より、リンドの言葉から彼がナディアの正体を丸ごと受け入れてくれたようだとわかって、嬉しかった。
「なぜ戻ってきたんだ。あのまま逃げてしまえば良かったのに。昨日の騒動はアーヴァインが上手く誤魔化したようだが、それでもお前の正体を勘繰る者はいた。俺が今日ここに来た途端、お前は何者なのだと商店街の奴ら何人かに聞かれた」
先程リンドが険しい顔をしていたのは、ナディアの正体を訝しむ者が近くにいることを危惧したからのようだった。
「列車に乗って首都から出ようとしたんですけど、乗るはずだった列車が故障して、出るに出られなかったんです」
「列車が駄目なら馬車でも何でもいいから、とにかく一刻も早く首都から離れた方がいい。悠長に構えていると足をすくわれるぞ」
地下室も火が回ったようで色々なものが焼け焦げているが、レンガ造りの外壁はそのままで地下の空間を維持できていた。
リンドは今下りてきたばかりの地下階段へ続く入口を睨んでいる。
「お待ちなさい! 逃げようとしてもそうはいかなくてよ!」
階段通路からはシャルロットの楽しそうな声が聞こえてくる。リンドは舌打ちをした。
「あのまま素通りしてくれればと思ったが、そうはならないようだな。銃騎士隊ではなくて警務隊が来たことはよくわからんが、またあの貴族女が関わっているなら、きっとろくなことにはならないだろう」
シャルロットはナディアを捕まえに来たようだ。しかし、連れてきたのが警務隊というのは確かに気にかかる。
「すまない、身を隠そうとして地下室に来たのは間違いだったな。ここでは逃げ場がない」
「大丈夫ですよ。いざとなったら警務隊全員をぶっ飛ばしてみせますから」
ナディアは拳を握りしめた。戦闘のためには愛用のナックルが欲しい所だったが、あれは里に置いてきてしまった――
「お前は本当に……」
リンドは呆れたようにまたため息を吐いた。
「警務隊だって銃器を持っているから危ない。下手に動くんじゃない。とにかく聞かれても人間だと言い張ってみよう。地上に連れ出されるだろうから――――例えば俺が病気で倒れた振りでもして奴らの気を引いてみるから、お前は何とか隙を突いて逃げなさい。できるだろう?」
ナディアはあの火事場からほぼ無傷で生還した。リンドも獣人の身体能力の高さには一目置いているようだった。
「ええ。たぶん大丈夫だと思います」
階段から複数の足音が響き始めた。しかしリンドはナディアが返事をした後も、さらに何か言いたそうにこちらを見つめていた。
たぶんこれで別れになる。正体を隠していたことだけは、最後にどうしても謝りたかった。
「リンドさん…… ずっと騙していてごめんなさい。私――――」
「何も言うな。お前の生まれがどうであろうと、お前は俺の大切なものを守ってくれた。俺にとってはそれが全てだ」
リンドの言葉がじんわりと身の内に染み込んでくる。ナディアは口元をきゅっと引き結ぶと泣きそうになり、実際に少し泣いた。
目尻に浮かぶ涙を指で拭うナディアを見つめているリンドの顔には、憂いの表情が浮かんでいる。人間社会では獣人は常に命を狙われ続ける存在である。リンドはナディアの行末を案じてくれているようだった。
「メリッサ、お前がこれから先進もうとする道は平坦ではないだろう。 ――――何があっても、もし、お前の恋人がお前の正体を受け入れなかったとしても、強く生きなさい」