95 首都から出られない
ナディアは文机にしまい込んで一度も封を切らなかったオリオンからの手紙をすべて取り出し、中身を読んだ。それらはナディアへの愛の言葉で溢れていて、気持ちを返せないことを改めて申し訳なく思った。
未読の部分をすべて読んだナディアは、短かったオリオンへの手紙の内容を書き足した。
『もしかしたらあなたと共に歩む人生もあったのかもしれない。私たちは最初にボタンをかけ間違えてしまったのでしょう。もしあんな出会い方でなかったら、私はきっとあなたを好きになっていたと思う。
あなたは私に愛を告げてくれた最初の人だったのに、私はそれに見向きもしなかった。本当にごめんなさい。あなたの苦しみを今は理解しているつもりですが、それを知っても尚、私の胸には別の人がいて、あなたの手を取る選択はできません。本当にごめんなさい。今はただ、それしか言えません。
あなたが私から解放されることを真に願っています。私のことは忘れて、どうか幸せになってください。さようなら』
ナディアは書いた手紙と一緒に、オリオンから届いたたくさんの手紙も文机の引き出しにしまって、鍵をかけた。
ナディアの心は既に決まっていた。ナディアが選んだのはゼウスだった。
(ゼウスは私の人生にいなくてはならない人だ)
ゼウスの所へ行って奴隷にしてもらってから、早めに抱いてもらおうと思った。
(そうすれば、オリオンだってきっと――――――)
時刻は夜で、今から出発した所で乗れる列車があるかもわからなかったし、家の片付けもまだ不十分だった。ナディアは首都から出立するのは明日にしようと決め、住処の最後の掃除に戻った。
翌朝、オリオンの家の玄関前に立ち、包帯を巻いた利き手とは逆の手にトランク一つを持ったナディアの姿があった。ナディアは玄関に鍵をかけると、文机の鍵と一緒に郵便受けの中に落とした。
目指すは駅だ。忙しくて特に時間は調べていなかったが、とにかく南西へ向かう列車に乗ろうと思った。駅へ向かう途中で新聞の購読を止める手続きもしたし、ランスロットへの手紙も投函した。
ナディアは昨夜の火事は放火ではないかと思っていた。昨日は昼食のために台所を使用したものの、火の始末はちゃんとしたし、今の時期にリンド宅では火を使う暖房器具は使っていない。リンドは煙草も吸わないし、出火の原因に思い当たる節がないのだ。
それに、火事場で油の燃える匂いをたくさん嗅いだことも、放火を疑う理由の一つだった。
まさかとは思うが、シャルロットに命令されてユトがやったのではないかと思わなくもなかった。
シャルロットは滝事件の時に、ナディアが死んでも構わなかったと思っていたようだし――というかむしろ殺そうとしたのかもしれないけど――気に入らない人物を害することにためらいがない。
それに火事の前日にリンドと大揉めをしていたから、恨みに思って店に火をつけた可能性が無きにも非ずな気がした。
彼らが犯人だとは限らないので、ランスロットへの手紙には、シャルロットが約束を破って会いに来ていたことは書かず、『働いていた店が火事になり店主が死ぬ所だった。火元が不明のため調査をお願いしたい』とだけ書いた。
もしかしたらこの手紙が元で、約束を破っていたことが露呈してシャルロットが修道院に行くことになるかもしれないが、それはそれ。ナディアはシャルロットよりもリンドの命の方が大事だった。
聡そうなランスロットならばこの文面だけで色々と汲み取ってくれるだろう。彼は色恋関係以外はまともそうに思えたので、きちんと調査して対応してくれる気がした。
ナディアは後のことは人間たちに任せようと思った。正体が獣人である自分がもうこの場所でできることは何もない―― そう思うと、親しいと思っていた人たちに正体が知られた時の反応を思い出して、ぽっかりと空いたようになっていた心が痛んだ。
そんな事を考えながら駅に辿り着いたナディアは、南西方面へ下る列車の切符を買った。出発時刻は約二時間後だったので、近くの喫茶店で時間を潰してから再度駅に向かったのだが――――
「え、嘘でしょ?」
なんと、ナディアが乗るはずだった列車が車両の不具合により線路上で修理しているのだという。修理が完全に完了しないと動かせないと言われて、ナディアは困惑した。
別の路線に乗って遠回りしながら南西に向かうこともできるが、あまり地理に詳しくないナディアは、できればわかりやすい順路で目的地まで向かいたかった。
故障した列車は三、四時間程度で直るのではないかと言われて、ナディアは再び待つはめになった。
首都から出られなかったこの現象がそもそも罠だったかもしれないとナディアが勘繰るのは、もっと後になってからだった――――――
オリオンの家の鍵は郵便受けの中に入れてしまったので彼の家には戻れない。喫茶店で時間を潰すことにも飽きたナディアの足は、自然とリンドと過ごした古書店へと向かっていた。
馬車を使わず南通りを歩くナディアを見かけた何人かの者たちが、そそくさと身を隠すように商店の中に隠れた。
彼らはナディアに気付かれないようにコソコソと何かを囁やき合っていた。
不穏な動きに気付かないナディアは、やがて焼けた古書店の前まで辿り着いた。
店は完全に燃えてしまったわけではなく、レンガ造りの壁の一部などはそのまま残されていて、燃え残った商品が水浸しになり散乱していた。
「……何しに来た?」
火事の焼け跡に近付くナディアは、扉が燃え落ち地下室へ繋がる空洞から上がってきたらしきリンドと、ちょうど出くわした。リンドは眉を寄せ、少し困惑したようにも見える険しい表情でこちらを見ていた。
「リンドさん……」
入院していたはずのリンドがなぜこんな所にいるのかと驚いていると、すぐにガラガラと車輪の回る音と、馬車を引く蹄の音が何台も近付いてきた。
何事かと通りを振り返れば、先頭を行くのは警務隊の馬車であり、その後ろにはアンバー公爵家の家紋のついた馬車も続いていた。
さらに見知らぬ家紋のついた、たぶん貴族家のものだと思われる馬車も数台まとまってこちらへ向かっていた。
それを見たナディアは、また厄介なことになるなと予感した。