93 後悔先に立たず
三人称→ナディア視点
燃え盛る古書店の前は騒然としていた。店員の少女が取り残された店主を救出してきた所までは良かったが、何故かまた火の中に戻ってしまい、なかなか戻って来ない。
救助されたリンドは地面にへたり込みながら真っ青な顔のままで古書店を見上げていた。
そのうちにやっと消防隊が到着して消火の準備を始めたが、この地区の水源は近くの学校のプールの水から取ることになっているので、ホースを長く準備する必要があり、未だ放水は始まらない。
そして炎に包まれた古書店から、盛大な音が響き渡った――――――
祖父の店が火事になったという一報を受けたエリミナは、晩餐を共にしていた母親と従兄で婚約者のアーヴァインと一緒に馬車に乗り、急ぎ現場へ向かっていた。父親は仕事で遅くなるとのことで同席はしていなかった。
「……そんな………… お店が…………」
炎上する古書店を馬車の窓から視界に捉えたエリミナは絶句した。
慣れ親しんだ祖父の店が燃えている。
「お父さん!」
エリミナの母親は馬車が停止するなり御者を待たずに自ら馬車の扉を開け、呆然と地面に座り込んでいる祖父の所へと走り出して行った。
エリミナもアーヴァインと共に馬車から降りた。しかし、母親と同様に祖父の元へ向かっていたエリミナの足が途中で止まる。
――――古書店から盛大な音が響き渡った。
その光景を視界に入れたエリミナは目を大きく見開いた。衝撃で固まるエリミナの手から杖が落ちて地面を転がる。ガクリと膝から崩れ落ちそうになるエリミナをアーヴァインが慌てて支えた。
人々の眼前で、本がずっしりと詰まった重い金属製の本棚を背中に担いだ少女が、燃える古書店を背に少しふらつきながら歩いていた。彼女は裏口ではなく正面玄関から出てきた。
盛大な音は、その少女――ナディア――が、鍵のかかった硝子製の玄関戸口を派手に蹴破った音だった。
******
店内では燃え盛る本棚が幾重にも倒れ、鍵の開いていた裏口への脱出経路が閉ざされていた。ナディアは試行錯誤しながらどうにか正面玄関まで辿り着き、力技で突破してきたのだった。
あたりは建物が燃えて爆ぜる音が響く以外はしんと静まり返っていた。誰もが息を呑みナディアを見つめていた。どこからどう見たって、本棚は十代の少女が一人だけで持ち上げられる重さではなかったし、そんな重いものを持ちながら硝子扉を派手に破壊して出て来られるなんて、通常では出来るはずがない。
ナディアは手の平に火傷こそしてしまったものの、他には大した怪我もなく火事場から脱出することができてホッとしていた。大事なものは持ち出せたし、これでリンドも喜んでくれるだろうと思っていた。
ナディアは古書店から少し出た所で背中の本棚を地面に下ろし、ふう、とやり切った感を滲ませて息を吐き出した。しかし、そこで周囲の空気がおかしいことに気付く。
ナディアを見つめる集まった人々が、どこか恐ろしいものを見るような目付きでこちらを見ていたのだ。
ナディアはようやくハッとした。普通の人間の女の子はこんな重そうなものを一人で担いで歩いたりはしない。
(また考えなしにやってしまった……)
致命的だ。こんな大勢の人の前で、獣人だと疑われそうな行動を取ってしまった――――
顔を強張らせ始めたナディアの耳に、とある人物の声が響く。
「す、すげえ! すげえな姐さん! これぞ火事場の馬鹿力ってやつだな! 人間追い詰められるととんでもない力を発揮するって本当だったんだな! いやぁ、すげえもん見せてもらったよ! ハ、ハハハハハ……!」
最後の笑い声だけはちょっと投げやりなようにも聞こえたが、アーヴァインがその場に響き渡るほどのかなりの大声でそんなことを叫ぶと、追従するかのように「すごい、すごい」とそこかしこから声や拍手が上がり始めた。
(場の空気の流れが変わった。アーヴァインのおかげで助かった…………)
硬直していた人々が動き始める。消防隊員がホースの水を建物にかけて消火活動を開始し、商店街の見知った何人かがナディアに寄ってきて「大丈夫か?」と声をかけてくれた。
バケツの水を用意してくれていた青年などは、「あんたすごいな!」などと言って笑顔でナディアの肩を叩きながら、まるで英雄に相対したかのような賛辞を送ってくる。
笑顔や安堵の空気感が漂う中、リンドとエリミナの二人だけが、絶望しきった表情のままであることにナディアは気付いていた。
(……二人は怪文書の内容を知っている。店が焼けてしまったこともあるけど、理由はきっとそれだけじゃない――――)