92 命より大切なもの
裏手にある従業員用通用口に回る。建物全体が火にまかれ扉を触ることも困難だった。ナディアは木材が燃えてレンガが焦げる匂いの中に、油が燃えている匂いがかなり混じっていることに気付く。
古書店は料理屋じゃないんだから油が燃える匂いがこんなに混ざってるのはおかしい。
(もしかしてこれ放火?)
訝しく思いながら、ナディアは扉を思いっきり蹴り破って侵入経路を確保した。
「リンドさん! いますか! リンドさん!」
建物の外壁の燃え方は酷かったが、中は本棚などに火が移っているものの、歩けないほどではない。ナディアは袖で口元を覆ってできるだけ充満する煙を吸わないようにしながらリンドを呼び、店内を進んだ。リンドの匂いを探ろうとしても煙の匂いが酷過ぎて探れない。煙の刺激で目がしぱしぱする。
とにかく二階へ行ってみよう、と思った所で、そこまで遠くない場所からゴホッ、ゴホッ、と咳き込む声が聞こえた。ナディアは火を避けながら声がした方に進む。
「リンドさん!」
地下へ続く入口の前あたりにリンドが倒れていた。
「しっかりしてください! 大丈夫ですか!」
「メリッ、サ……」
抱き起こすとリンドは閉じていた瞼をゆっくりと開けてこちらの名を呼んだ。意識はあるようだ。倒れて低い位置にいたためにあまり煙を吸わずに済んだらしい。
「もう大丈夫です! すぐにここから出ましょう!」
ナディアはぐったりとしたリンドを背中に背負って移動しようとしたが、何故かリンドは背負われることを拒んだ。
「お前だけ逃げろ。俺はいい」
ここにいたら死んでしまうというのに、何を言っているのかとナディアは驚いてリンドの顔を見つめた。
「下に大事なものがある。あれを置いては行けない」
リンドが言っているのは、地下室に置いてある歴史的価値のある古い蔵書群であるとナディアはすぐに気付いた。
「何言ってるんですか! 命より大切なものなんてありませんよ!」
リンドが倒れていたのは裏口の前ではなく地下室への扉の前だった。リンドは逃げるのではなく、まず第一に、古い歴史書を取りに行こうとしたようだった。
しかし、あの蔵書全てをこの火事場で持ち出すなんて、弱りきったリンドにはとても不可能だろう。
リンドが古い歴史書をとてつもなく大事にしていたことは知っているが、今は危機的状況で、兎にも角にもここからの脱出が最優先であるとナディアは考えたのだが――――
「俺にとってはあれらは俺の命そのものだ! あれを失うくらいならこのまま死んでやる!」
「馬鹿なこと言わないでください! 命を粗末にするようなわがままが通るはずないでしょう! 逃げますよ!」
ナディアは元上司に対して初めて声を荒らげた。
(まさかこんな状況でここに残ると言い出すとは……)
「うるさい! お前に指図される謂れはない! あれは俺にとっては命より大事なものなんだ! あれを失ったら俺が生きてる意味なんかない! わかったらさっさと出て行け! 俺のことは見捨てろ!」
(本気だ)
さっきまでぐったりと倒れていたくせに、ナディアを睨みつける瞳には強い意志があった。リンドはナディアの言うことなんて一切聞く気はないのだ。この頑固ジジイは本気で愛書たちと心中するつもりだ。
「…………わかりました! 私が何とかします!」
言いながら、ナディアはリンドの腕を引っ張り、承諾なく無理矢理リンドを背負った。
「お、おいっ……」
リンドが戸惑いの声を上げたが、ナディアは構わず歩き出した。
意固地になったリンドが何があっても絶対に自分の意志を曲げないことをナディアは知っていた。リンドの意向を汲んだ形で何とかするしかない。
リンドは背中から降りようとしていたが、ナディアの強い力で押さえられてそれは叶わない。リンドはかなり驚いているようだったが、ただの人間が獣人の力に敵うはずがなかった。
「とにかく一回外に出ましょう!」
リンドの困惑はそのままに通用口から外に出て大通り側に回ると、そこに佇む人々からおおーっとどよめきが聞こえた。少女が老人を救出したことに称賛の声が上がる。
ナディアは商店街の人たちにリンドを託すと、再びバケツの水を被りに行く。
「メ、メリッサ!」
行動の意味を察したリンドがナディアの仮の名を叫んだ。ナディアはリンドに振り向くと、にこりと笑った。
「大丈夫ですよ、安心してください。あの本は私が全部取ってきますから」
「待て! メリッサ! 行くんじゃない! お前が死んでしまう! メリッサ!」
リンドが手を伸ばしたが、ナディアは再び燃え盛る古書店の中へと向かった。
店の中はこの短時間で先程よりも火の手が増えていた。
(とにかく急ごう!)
地下室へ続く扉の前に辿り着いたナディアは、特に何も考えずに取手を握り――――
「熱っ……!」
ナディアはすぐに手を離したが、壁際を伝い木製の扉も焼いている炎によって熱された金属製の取手を、思いっきり掴んでしまった。手の平全体に鈍い痛みを感じ、同時に皮膚が焼けた匂いを嗅いだ。
ナディアは被った水で滴るスカートの裾を破り、火傷してしまった利き手に幾重にも巻き付けた。今度は慎重に扉を開ける。布地の上から取手を捻り、後は靴の底で押して扉を開けた。
地下の階段にはそこまで火の手は来ていなかった。ナディアは急いで地下室へ下りた。
リンドが大事にしていた意匠の凝った金属製の本棚の前に立った時、階上から何かが爆ぜる大きな音がした。
(早くしなくちゃ!)
本棚には歴史書以外の本も詰まっているようだったが、どれを持っていこうかなどと吟味している時間はない。
この本棚に入っている本はリンドのお気に入りの本ばかりのはずだから、とりあえず全部持って行けば間違いはない。焦るナディアは本棚を丸ごと背中に担ぎ、既に手すり部分に火が燃え移り始めていた階段を駆け上がった。