91 火事
オリオンの家に帰ったナディアは私物を片付けて荷造りをした。持っていくものはトランク一つに入れて必要最小限にするよう努めた。残りの物は置いていくわけにはいかないので、全て処分するしかないだろう。
本や雑誌類は一纏めにして売れそうなものは仕事場とは別の古本屋へ持って行こうと思った。リンドも店を片付けねばならないだろうから、余計な本が増えるのは困るはずだ。服は持って行ける量を厳選して残し、あとはやはり古着屋へ。誰かにあげてもいいのだろうが、アテナは不在なので渡す術がない。
エリミナの姿が思い浮かぶが、エリミナは自分よりも小柄なのでサイズが合わないだろう。それにエリミナは――――――
片付けながらふとオリオンへの置き手紙を書かねばと思い至りペンを取ってみたが、何と書けばいいのか書き出せずに止まってしまい、しばらく固まっていた。困った末に、「他に一生を共にしたい相手ができたのであなたとは一緒になれません。ごめんなさい。今までありがとう」とだけ書いた。
オリオンからはすごくたくさん手紙をもらったのに、初めて書く返事がこんな短い文章で申し訳ないと思いつつ、それ以上は何をどう書いたらいいのかわからなかった。
本当は直接会って説明するべきなんだろうと思った。
元はと言えば、オリオンが無理矢理にナディアを里から切り離したせいで、自分の人生がかなり変わってしまった訳なのだが、でもその後のことには恩も感じているので。
ゼウスの所へ行くために持っていくものの整理はついたので、あとは残ったものを処分するだけになった。売れそうなものを一通り売り払った頃には日も暮れていた。
リンドはどうしているだろうと思い、ナディアは夕食をリンドと共にするつもりで食材を買ってから古書店に向かった。その頃にはもう完全に日が落ちてしまい、ナディアは街灯の灯る首都の通りを買い物袋を提げて歩いた。
ふと、ナディアの鼻腔が独特の匂いを捉えた。何かが燃えている匂いだ。
遠くから半鐘が聞こえる。これは首都で火事が起こった時に鳴らされるものだと、人間社会にやってきてから知った。
ナディアは歩きながらずっとエリミナや犯人のことを考えていた。どこかで火事が起こったらしいことは知っても、最初は頭の片隅で漠然とそのことを認識しただけだった。
しかし歩いているうちに、聴覚だけではなく視覚にも異変が現れた。通りの向こうの夜の空がぼんやりと赤くなっている。赤い光源のおかげで煙らしきものが立ち上っているのも見えた。
嫌な予感がしてナディアは走った。もちろん獣人だと思われないようにゆっくりとだが、心は早く駆け付けたくて焦っていた。
息を切らせることもなく現場に辿り着いたナディアは、驚きのあまり手に持っていた買い物袋を地面に落とした。昼食の時に食べたいとリンドが言っていた林檎が袋から出て地面に転がる。
「そんな…………」
愕然として呟くナディアの目の前では、ナディアの職場だった古書店が大火に包まれて燃えていた。
ナディアは衝撃で頭が真っ白になってしまったが、すぐにハッとした。
「リンドさん!」
ナディアは買い物袋には構わず、近くにいた商店街の顔見知りの者たちがいる所へ駆け寄った。
「すみません、リンドさんは無事ですか!?」
「おお、姉ちゃん! あんたは無事だったか! 良かったな!」
「リンドさんは! リンドさんはどこですか!」
「わからん! 姉ちゃんは一緒じゃないのか?」
質問に質問で返されてしまった。
(リンドさんの無事が確認されていないということは、きっとまだ中にいる!)
「おい姉ちゃん! 何するつもりだ!」
ナディアは佇む人々の中から、水の入ったバケツを持ったまま立ち尽くす人を目ざとく見つけて近寄った。大方、火を消そうとして持ってきたのだろうが、この大火の前では数杯のバケツの水程度ではどうすることもできないと諦めているようだった。
ナディアはその人の手からバケツを借りて、頭から被った。
「止めとけ! この炎じゃどっちみち助からん! あんたまで死んじまうぞ!」
男や周りの者たちが制止の声を上げるのには構わず、ナディアは炎の中へ突っ込んで行った。