90 友の正体
ナディア視点→エリミナ視点
往診の手配やエリミナへの伝言を終えてからナディアは家には帰らず一度店に戻った。リンドに医者が午後来ることを伝えてから家に帰り荷造り等々をしようと思っていたが、寝室にいるリンドは眠っていた。
ナディアはリンドが食べ終えた食器を片付け始めた。皿を洗いながら自分も出立のためにオリオンの家の中を色々と片付けねばと思った。まだ帰らないオリオンには会わずに首都から出ることになるかもしれないが、もう仕方がない。置き手紙を残していくくらいしかできないだろう。
ナディアはふと思い立ち、この家の洗濯場に行って洗い物らしきリンドの衣類を丸っと洗濯した。高熱のリンドに家事はできないだろうし、このくらいの恩返しはしておかなければと思った。大通りから隠れる位置にあるベランダに洗濯物を干し終えてから家の中に入り、再度寝室へ行きリンドの様子を見る。
眠ったままのリンドの額を触ればまだ熱は高い。氷嚢を取り替えてから一度家に帰ろうと階段を降り始めた所で、階下から漂うエリミナの匂いに気付く。
「エリー、来てたの? 学校は?」
まだ昼間なのに店に来たエリミナに言葉をかけながら階段を降りるが、会計台あたりにいたエリミナは何も返事をしない。
「……エリー?」
エリミナはこちらに背を向けたまま立ち止まるナディアの顔を全く見ない。彼女は杖を突きながら慌てたように従業員用通用口から外へ出て行ってしまった。
「……?」
ナディアは首を傾げた。エリミナの様子が変だ。なぜ何も言わずに去ってしまったのか。
違和感を持ったナディアはエリミナの後を追おうとした。けれどナディアが外へ出るよりも先に御者が鞭を入れる音と馬の嘶きが聞こえ、何も言わないエリミナを乗せた屋敷の馬車は店から離れたようだった。
逃げるように馬車を出したエリミナの態度からナディアの胸に一抹の不安がよぎる。
ナディアはエリミナの馬車を追いかけるのではなく店の中に戻り、エリミナが会計台で何をしていたのか、その残り香を嗅いだ。
集中すると頭の中に会計台の前に佇むエリミナの姿が浮かんでくる。獣人特有の鋭い嗅覚によって、脳内にはエリミナの先程の行動が再現されていた。ナディアがまだ二階にいる時のものだ。
エリミナは会計台にある書類立てをしばらく見つめた後、その書類立てに手を伸ばして、一枚の封筒を抜き取った。
それは昨日投函された怪文書が入った封筒だった。
昨日はエリミナは放課後に来るはずだったが、「予定が変わって来なかった」とリンドが言っていたから、怪文書を見るのは今日が初めてなのだろう。
エリミナは封筒から怪文書を取り出して広げ、そして驚いたように口元に手をやって、しばらくそのまま固まっていた。
それから慌てたように怪文書を封筒に入れて元の書類立ての位置に戻し、杖を突いてその場を後にした。きっとそこら辺でナディアが二階から降りてきたのだろう。
ナディアはその場に膝から崩れ落ちそうになっていた。
(エリーにあの文書を見られた)
そして彼女はおそらく、ナディアが獣人であることに勘付いた。
******
その日の午後――――
学校を早退した後に自宅の部屋にずっと閉じ籠もっていたエリミナは、これではいけないと一つ決意をし、再び馬車を祖父の店へと走らせていた。
昼間は風邪を引いたという祖父が心配で学校を抜けて訪ねたが、無人だった一階の店舗でエリミナはそれを見つけてしまった。
少し前から、『理由は話せないがメリッサ・ヘインズは危険だから一切の接触を断った方がいい』と忠告をしてくる人物がいた。何を言っているのかとエリミナは再三に渡るその忠告を信じたりはしなかった。
けれど、エリミナはその手紙を見た時に、彼が何を伝えたかったのかを理解した。
メリッサの正体が獣人かもしれないことにエリミナは恐れ慄き、祖父の容態も確認せず逃げ出してきてしまった。しかし祖父をそのままにはしておけないし、そもそもメリッサが獣人だということ自体が何かの間違いかもしれない。はっきり確認しなければと思った。
屋敷の護衛の中でも指折りの屈強な者たちを連れて、エリミナは祖父の店舗兼住宅の裏手にある扉の前に立っていた。エリミナはごくりと唾を飲み込んでから預かっていた鍵で扉を開け、古書店の中に入った。
「おじいちゃん……?」
一階には誰もいなかった。エリミナは護衛と共に二階に上がったが何の音もしない。エリミナは祖父の寝室へ向かうと、ノックと共にリンドに声をかけてから部屋の扉を開けた。
リンドは寝ていたようだったが、エリミナたちの気配に気付いて目を開けた。
「おじいちゃん………… 大丈夫?」
「ああ…… さっき医者が来て薬を貰って、少し楽になったような気がする」
風邪の容態だけではなく別の意味も含んで声をかけたが、リンドからは体調面に関する答えが返ってくるのみだった。
リンドが水が飲みたいというのでエリミナは上体を起こすのを手伝い、すぐそばの机の上に置かれていた水差しからコップに水を注いで渡す。
「あの…… メリッサは?」
水を飲み終えたリンドにエリミナはおそるおそるといった様子で尋ねた。
「メリッサなら医者が帰るまではいてくれたが、荷造りがしたいからと家に帰った。エリー、実はな、メリッサが店を辞めることになった。首都から出て婚約者の所へ行くそうだ」
「そう、なんだ…………」
エリミナは肩の力が抜けたとでもいうのか、拍子抜けしてしまった。近いうちに獣人かもしれないメリッサが遠くへ行くのなら、敢えて自分が危険を冒して彼女の正体を確かめなくてもよいのではと思った。
メリッサがいなくなるなら、自分たちの安全は守られる。後のことは銃騎士であるゼウス様に全て任せればいいと思った。メリッサが獣人であってもそうでなくても、きちんと対処してくれるだろう。
そこまで考えて、エリミナは自分がとても薄情な人間であると思った。もしも獣人であることが広く世間に知られたら、彼女は殺されてしまうかもしれない。だからこそ彼も理由については明言を避けたのではないか――
今でこそ自分はメリッサの正体が獣人ではないかと勘繰り完全に怯えてしまっているが、彼女のことをずっと友達だと思ってきたのに――――
これを機に店を畳もうと思うんだ、というリンドの話を聞きながら、エリミナは自分にとって『メリッサ・ヘインズ』がどういう存在なのかを考えていた。