89 円満退職
食欲はないと言っていたが、台所にあった穀物で簡単に粥を作って持っていくと、リンドは上半身だけを起こした。寝台の上に胡座をかいたリンドにお盆を渡すと、ぶっきらぼうに「ありがとう」と言ってから食べ始めてくれた。ナディアは近くにあった椅子に座ってリンドに対する。
「何だ? 話したいことがあるのか?」
お互い無言の状態がしばらく続いてから、口火を切ったのはリンドだった。ナディアは椅子に座りじっとしていて、言いたいことがあるらしいと伝わったのか、リンドが水を向けてくれた。
ナディアは姿勢を正す。本当はリンドの風邪が治ってからの方がいいのではと思っていたが、言える機会があるなら言ってしまおう。
「すみません、実は、ゼウスの後を追いかけようと思いまして、お店を辞めさせてください」
ナディアは椅子に座ったまま頭を下げた。沈黙が続く。リンドは何も言ってくれなかったが、カタリとスプーンがお盆の上に置かれる音がした。ナディアが顔を上げると、リンドは寝台から降りようとしていた。しかし熱のせいか立ち上がろうとして少しよろけている。ナディアはすかさずリンドの側に行って支えた。
「もう年だな。一人で立てないとは」
「熱のせいですよ」
リンドはそれに答えることはなく、歩いて壁際の箪笥に近付いた。ナディアもリンドに従う。
リンドは引き出しを開けると、奥から厚みのある茶封筒を出してきてナディアに渡した。
「昨日のうちに用意しておいたんだ。本当は臨時賞与のつもりで、長期休暇もやるからあの青年の所へ行って無事を確かめて来い言うつもりだったが、お前がそのつもりなら、退職金だな」
リンドはナディアの意向を受け入れてくれたようだった。
「いや、でも、こんなに……」
中を確かめたが結構入っている。
「賞与としては多いが祝儀のつもりもあった。退職金としては妥当だろう。今まで働いてくれてありがとう。幸せになりなさい」
強面のはずのリンドが微笑んでいるのを見て、ナディアは少しうるっときてしまった。
「リンドさん、本当にありがどうございます! 私が辞めたら代わりの人を探さないといけなくて迷惑をかけるのに、ここまでしていただいて――――」
「いや、店はもう閉めるつもりだ」
言葉の途中で声をかけられて、ナディアはピタリと動きを止めてリンドを見つめた。
「えっ! わ、私が辞めるせいですか!」
「いや違う。まあきっかけではあるが、前々から考えていたことだったんだ。お前の前任者が辞めてからなかなか次も決まらなかったし、おそらくお前が来なければもっと早く店を閉めていたと思う。お前が来たことでこの店は少し長らえたんだ」
「で、でも、本当にいいんですか? こんなに立派なお店なのに……」
「立地だけはいいが建物自体はもうかなり古い。元々はレンガ造りだった所を木材で建て増しなどもしているし、色々ガタはきている。老人が一人生きていけるくらいの額は稼げたし、俺は余生を歴史研究に捧げたい。
それに別に後継がいるわけでもないしな。娘とエリーには商会があるから、俺の後を継げとも言えん」
「私が継げたらいいんですけど……」
するとリンドは、ふっと笑った。
「お前は嫁に行け」
そう言って笑うリンドの表情は温かなもので満たされているような気がした。
リンドはナディアに支えられながら寝台まで戻り、そこに腰掛けた。
「俺と数年前に亡くなった妻の間にはなかなか子供ができなくてな。娘は年を取ってからやっと授かった一人娘だった。だけどあいつは妻じゃなくて俺に似て口が悪かった。
結婚したいと言って連れてきたのが一回りも年上のかなり軽薄そうな自称商人で、二人で商売をやりたいから金を貸してくれとも言ってきた。俺は初見でそいつが全く信用できないと思った。――まあ、結局あいつらの商売は成功して俺の見立は間違っていたわけだが――俺は結婚に反対したし、金も一切貸さない、別れろと言ったんだ。
当然の如く娘は激高した。そいつと結婚するなら勘当するぞという俺の売り言葉に買い言葉の応酬になって、喧嘩別れになって娘は出て行った。エリーが生まれてから少し交流するようにはなったが、今でも娘とわだかまりのようなものは残っている。エリーは頻繁に来てくれるが、娘は実家に寄り付きもしない。
メリッサ、物事には丁度良い時期というものがある。俺ももっと早く娘に謝りに行けば良かったと後悔している。お前が仕事を辞めてでもあの青年と一緒にいたいと思ったのなら、きっと今がその時期だ。
お前も俺にとっては孫娘のようなものだ。店のことはいいから、ちゃんと幸せになりなさい。あの青年との幸せを掴み損ねるな」
その後医者に行きたくないと駄々を捏ねるリンドのために医者に往診を頼みに行った。医院はそこそこ混んでいて、行けるのは午後になるだろうという話だった。
それから学校にいるはずのエリミナに、リンドが風邪を引いたことと今日は店が休業になったことの伝言を学校の守衛に頼んだ。
もしエリミナが店を手伝うために放課後やって来たとしても、無駄足になってしまうのではないかと思ったからだった。
リンドに退職の許可はもらえたし、南西列島への旅費も退職金があれば何とかなる。いつでもゼウスの元へ向かえるが、出立はせめてリンドの風邪が治ってからにしようと思った。