87 従僕の悲愛
シャルロット視点→ユト視点
リンドに塩を撒かれた後に逃げ返った格好にになり、平民にこれ以上ない屈辱を味合わされたと感じたシャルロットは、馬車の中でも歯噛みしていた。
「お、お嬢様…… お許しを……」
席に座っているシャルロットは馬車の床に額を擦り付けてひれ伏すユトの頭をヒールのある靴でぐりぐりと踏ん付けていた。普段は虫も殺せませんわという雰囲気を漂わせる令嬢の裏の顔である。
「なぜ私をあの店から連れ出したの! まるで私があのクソジジイに負けたみたいじゃないの!」
「すみません、お嬢様…… すみません……」
ユトは今にも泣き出しそうな情けない声を出しているが、声の響きの中に別の感情が含まれていることをシャルロットは知っていた。
一見主人が下僕に無体を働いているようにも見えるが、なじりながらもシャルロットの足はユトの頭部を柔らかく踏んでいるだけだ。
それにユトだってこの状態に興奮しているに違いないのだ。八つ当たりをしていることは否定できないが、同時に下僕が求める快楽も提供してやっているのだ。
シャルロットが現在、絶対に自分を裏切らないと確信し全幅の信頼を寄せているのはユトともう一人だけである。
シャルロット至上主義であり、シャルロットのためならばその身を滅ぼしても構わないと思ってる自分だけの従僕ユトを本気で痛めつけようとは思わないし、踏む力も加減はできる。
けれど古書店のあの横柄な偏屈ジジイへの怒りは加減できない。
今日の出来事については、本当は自分の婿になるはずだった、性癖に刺さりまくる容姿をした見目麗しい銃騎士ゼウスを寝取ったド平民生意気女よりも腹が立つ。
シャルロットはユトの頭から足をどかすと顔を上げさせた。屈み込んで頬を優しく撫でた後に野暮ったい前髪を上げると、吸い込まれそうに美しい輝きを放つ銀色の双眸と目が合った。こんな色合いをした瞳を持つ人間はそうそういない。
ユトは子供の頃から、人によっては不気味にも見えてしまう瞳のことを誂われ続けた結果、前髪を伸ばして瞳を隠すようになり、卑屈な性格になってしまった。
しかしシャルロットにとっては神秘的に感じられる銀色の大きな目を持つ男は魅力的に見えた。前髪を払えば顔の造形だって全部良いし、シャルロットのお眼鏡にかなうほどには美しく逞しい男がそこにいた。
本当はもう少し中性的な方が好みではあるのだが。
ユトの素顔を知る者たちの中には前髪を切った方が良いと助言する者もいたが、シャルロットは頑としてユトに前髪で瞳を隠すように命令し続けた。もしもユトの美しさを知って色目を使うような女が出たら、ちょっとその女を殺してしまうかもしれないので。
シャルロットはユトにある一つのことを命じた。
すると劣情を隠しつつも自分だけを見つめる銀色の瞳に、悲しみの色が宿るのが見えた。
「…………お嬢様は私を、人殺しになさりたいのですか?」
言いにくそうにしながらも下僕に反論されて、シャルロットはムッとした。
「この前は私の言うことを聞いたじゃない! 何で今回だけは駄目なのよ!」
シャルロットに詰め寄られて、できない理由を話したいのかもしれないが、ユトはもごもごと口籠った。
前回のことで人の命を奪うことへの恐ろしさと罪悪感が芽生えたのかもしれない。シャルロットは何となく従僕の思いを察しつつも、命令は取り下げなかった。
きつく睨んでもユトから色良い返事は返ってこない。シャルロットはイライラした。
「ならいいわ、あなたはクビよ! 別の従僕を探すだけだわ!」
「そ、そんなっ! 捨てないでください!」
ユトが目に見えて慌て出す。何があってもユトが自分から離れたがらないことはわかりきっていた。
「わ、私は……! お嬢様がいないと生きられないんです!」
「ならできるわよね?」
「そ、それは……」
また口籠る。『結婚は銃騎士であるゼウス様とするから、ユトは愛人ね。ずっとそばに置いてあげるわ』と言った時も同じように戸惑っていたが、結局はシャルロットの言い分を受け入れたユトである。
「ならいいわ!」と言って臍を曲げたふりをしてユトからそっぽを向きつつも、最後はユトが自分に縋ってくるだろうことをシャルロットは理解していた。
公爵邸に戻ってからも、シャルロットはユトに何か話しかけられても無視し続けた。元から陰気な男だったが、時間の経過と共に辛気臭さが酷くなる。
「あら、まだいたの? 出て行くための荷造りが大変でしょうからもう下がっていいわよ」
その後の情報により獣人王シドによる西部の被害を南西列島へのものだと勘違いしていたことに気付いたシャルロットは、ほっと胸を撫で下ろした。
嫌味のようなことを言う余裕も出てきたが、言われたユトは今にも死にそうな雰囲気を醸し出していた。
しかしユトがシャルロットのそばを離れようとする様子はなく、就寝する時間まで近くに控えていた。
「お嬢様、おやすみなさいませ……」
明かりを消しに来た使用人と共に部屋を出て行くユトが挨拶をしても、シャルロットは寝台の上でぷいっと背を向けたまま返事をしなかった。
明かりが消えて扉が閉まり、使用人たちの足音が遠ざかって行く――
シャルロットは暗闇の中で目を凝らし、窓をずっと見つめていた。
すると幾らも経たないうちに、来てほしい時にはいつも鍵をかけない窓が、ススス…… と静かに開いた。
窓が閉まったと思った時には、既に男はシャルロットがいる寝台のすぐそばまで来ていた。
「好きです、愛しています…… 捨てないでくださいお嬢様……」
泣きそうな、というか既に泣いているユトが、横たわるシャルロットに縋り付いてくる。シャルロットは思わず、令嬢らしからぬ悪そうな笑みを浮かべてしまった。
「ユト……」
シャルロットは優しげな声で名を呼びながら、ユトの頬を両手で包み込んだ。
「私のお願い、聞いてくれるわよね?」
上にいるユトを見上げて、甘えたような声を出す。
「何でもします……」
「良かった……」
シャルロットはユトを寝台へ引き入れた。
******
「愛しています、お嬢様…… どこまでも、お供します…………」
行き先がたとえ地獄でも。