8 お別れ
仕事が終わり、古書店を後にしたナディアが家の前まで帰ってくると、窓には明かりが灯っていた。食欲をそそる良い匂いが家の中から漂ってくる。
「ナディアちゃーん♡ おかえりなさーい♡」
ナディアが玄関の鍵を開けて扉を開けようとするとそれよりも早く内側から扉が開き、いつもの少年姿のオリオンが両手を広げ喜色満面で飛び出して来た。
抱きついてこようとするのはいつものことなので、ナディアは毎回それを完璧に避けきることを訓練だと思って己に課しているが、この男に触れられずに家の中に入れたことが一度もない。今もナディアの動きを上回る素早さを発揮したオリオンによっていつの間にかお姫様だっこをされてそのままの帰宅となった。
仏頂面のナディアに対してオリオンはにこにこと上機嫌だ。
「今日もお仕事お疲れ様♡ お風呂にする? ご飯にする? それとも俺とイチャイチャする? 俺とお風呂のコースでもいいよ♡」
この男の戯言も毎度のことだった。「俺とイチャイチャ」と「俺とお風呂」な展開にはならないように気を付けているつもりだ。お風呂はオリオンが帰ってからでないと絶対に入らないようにしている。でないとナディアの入浴中にオリオンが風呂場に侵入してくるからだ。もうこれ以上自分の将来の番に申し訳ないことはしたくない。
「ご飯」
「はーい♡」
ナディアが短く要望を伝えると、オリオンはナディアをソファに座らせてからキッチンに向かう。オリオンが背を向けた姿も喜びに満ちていて、たぶん尻尾が生えていたら思いっきり振り回していると思われる。
すぐに食事の支度が整ってナディアはテーブルについた。とても美味しそうな料理が並んでいて、お腹が空いていたナディアは早速ナイフとフォークを使って食べ始める。
「美味しい?」
「うん」
「じゃあご飯が美味しいことを記念して俺と結婚しようか」
「ヤダ」
どんなに好意を寄せられても、最初に意識のない状態で襲ってきたことが最悪すぎた。早くお金を貯めてオリオンから離れなければと思っている。
ただ、オリオンは食事の用意をしてくれたり他のことも色々と世話を焼いたりしてくれる。普段から陽気で優しいし、そんなに悪い奴でもないのかなと思うようにはなっていた。変態だけど。
「ありがとうございました」
お客さんからお金を受け取って会計を済ませる。店を出る客の背中を見送っていると、入れ違いに茶髪の少年が店の中に入ってきて立ち止まった。
「……エリー、ごめん。ちょっと知り合いが来てて、少しだけ抜けても大丈夫?」
「うん、いいよ」
会計台の隣で椅子に座りながら帳簿付けをしていたエリミナは、顔を上げてナディアにそう返すとすぐに帳簿へ視線を戻した。
リンドは書庫にいると言って地下室に降りて行ったのでしばらくは戻って来ないだろう。
オリオンはほぼ毎日のようにナディアが働く古書店に現れていた。
今のように見慣れた茶髪の少年の姿で来ることもあれば、全く見知らぬ者の姿に化けて店に来ることもあった。知らない姿になっている時は家に帰って「今日行ったよ」と言われなければ気付かない時もあるが――――
『ナディアちゃん…… 好き……』
精神感応という魔法で告白めいたことを頭の中に直接語りかけてくることもあって、気が散って仕方がなかった。ナディアはオリオンが来たことに気付いても客として本の購入でもしない限りは常に無視していた。だが、今日だけは勝手が違う。
オリオンが再び里に潜入することが決まった。あの恐ろしくも情け容赦ない父が支配する里に。父に正体を見破られればおそらく命はないだろう。オリオンは出立する前の最後の挨拶に来たのだ。
ナディアはオリオンの腕を掴むと店から少し離れた路地裏に連れて行く。ここならもういいかと歩みを止めて振り返ると、すかさずオリオンの腕が伸びてきて抱きしめられた。
ナディアはその腕を振り払おうとはしなかった。
「行きたくない。ずっとナディアちゃんのそばにいたい」
オリオンは涙声になっていて声には悲痛な響きがあった。潜入は長期に渡る予定で、いつ戻れるかはわからないらしい。
「……行くのやめたら?」
オリオンは正式な銃騎士隊員ではないそうだ。命をかけるほどの責務はないような気がする。だがオリオンはしばしの沈黙の後に首を振った。
「……これは俺の使命なんだ。俺は、俺たちは、いつか獣人が人間と同じように肩を並べて生きていける社会を作るんだ」
(獣人が人間と一緒に生きていける社会……)
オリオンは愛おしそうにナディアを見つめた後、頬に手を置いてきてそれから――――
ナディアは近付いてきたオリオンの唇を手で抑え、顔を仰け反らせて口付けを避けた。
「ナディアちゃん?! しばらく会えなくなるんだよ!? ちゅーぐらいさせてよ!」
「恋人じゃないんだから無理」
「今すぐ恋人になれば問題ない!」
「絶対イヤ」
「今までたくさんしてきたじゃないか!」
「ほとんどが私の意識のない時にあなたが勝手に無理矢理ね。全部不本意よ」
「ただでさえ最近ずっとしてなくて、こないだ一回しただけで、俺はもうずっとナディアちゃん欠乏症にかかっていて、これから遠距離になるのに耐えられない! 耐えられない!!」
こないだの一回というのは休日にエリミナと買い物に行くことになった際、「俺も行く」とミランダ姿のオリオンが付いてきてしまった日の話だ。
「服を買いに行こう」と言うからナディアはてっきりエリミナが自分の服を買うのでそれに付き合うのかと思っていたが、そうではなくて、黒だとかこげ茶だとかとにかく暗い色の服ばかり着ていたナディアに、違う系統の服も勧めたいという趣旨の買い物だった。
お金を貯めたかったナディアは最初及び腰だったが、首都では里と違って容姿を馬鹿にしてくる者もおらず、色んな服を試着してもオリオンはもちろんのこと、エリミナにも店の店員にもよく似合っているとおだてられ、店員は買わせるためだったかもしれないがとにかく悪い気はしなかったので、今まであまり着なかった色合いの服を数着買うことにした。
そのあとせっかくだから化粧品も買おうと言われたが、エリミナの実家の商会と取り引きがある店で割引きはしてもらったが、これ以上は予算の都合でまた今度にしたいと言うと、「私の家に余った商品があったかもしれない」とエリミナに言われて、急遽彼女の自宅にお邪魔することになった。
エリミナは、これは家ではなく城ってやつなのでは、と思うくらいに広くて綺麗で豪華なお屋敷に住んでいた。
エリミナに化粧品を譲ってもらい、ついでに化粧の仕方なども教えてもらっている時に、それは起こった。
エリミナが急に訪れたという婚約者こと『アーくん』を迎えに部屋から出てしまった後、ナディアは大きい鏡台にオリオンと二人横並びで座り瞼の縁に線を入れていたのだが、手元が狂って大きくはみ出してしまった。
オリオンが拭ってあげるよと言うので目を瞑った所、不意打ちのように口付けされた。ぶん殴ろうとしたのだが折よくエリミナと『アーくん』が現れたためその場はオリオンにしてやられたままになっていた。
その時のオリオンはミランダの姿だったのだが、むくれるナディアをよそに、とても満ち足りた笑顔をナディアに向けていた。
現在、すぐそばいる少年姿のオリオンはみっともなくおいおいと泣きながら、ナディアの身体に手を回してすがっていた。
少しだけ、ほんの少しだけ、ナディアはオリオンの気持ちを受け入れずに泣かせていることを申し訳なく思った。もしかしたらこれが今生の別れになってしまうかもしれない。最後になるかもしれないのなら、泣くのではなくて、あの時のように笑っていてほしいと思った。
「……ほっぺたならいいよ」
それが、恋人ではない男にしてやれる最大限の譲歩だった。けれどそれでもオリオンは少し不満そうである。
「私からしてあげるよ」
途端にオリオンは涙を引っ込めて目をキラキラと輝かせた。オリオンはにこにこと笑いながら頬をナディアに向けてくる。
ナディアは恥ずかしかったが、勇気を出してオリオンの頬に口付けた。
「ナディアちゃん!!!!」
「わあっ!」
途端にオリオンはナディアを抱き上げてくるくると回り出す。
「ありがとう! すごく嬉しい! 愛してるよ! 俺の最大限の愛を君に捧げるよ! 俺手紙書くから! できるだけ早く戻って来られるようにするから待っててね!」
ナディアを降ろしたオリオンは、とても嬉しそうにしながら自分もナディアの頬に口付けた。
「俺がいなくなってもちゃんとご飯食べるんだよ?」
「食事の心配なら大丈夫よ。そっちこそ本当に気を付けてね」
あの父相手に、何事もなく無事でいてほしいと思う。
オリオンは頷いて手を振り、名残惜しそうにしながらも一瞬でその場から姿を消した。