82 招かれざる客
ナディアは努めていつも通り振る舞おうとしていたが、今朝の出来事がずっと頭から離れなかった。それが表に出ていたらしく、何度かリンドに、「大丈夫か?」と声をかけられた。
リンドからはやはり警務隊に言いに行った方が良いと何度も言われたが、「ただのいたずらですから大丈夫です」と言い張って断り続けた。けれど顔色がずっと悪かったらしく、「そんな顔をしていたら客が寄り付かない。今日はもういいから家に帰って休め」とリンドに言われた。
その言葉の意味を額面通り受け取ると、少々思いやりに欠ける発言のようにも思えるが、ナディアは仕事を通してリンドの人となりを理解している。
つまりは、厚い温情は持っているのに言動がぶっきらぼうすぎるこの店主の言葉を意訳すると、「無理するな、店のことはいいから家に帰って休め」という意味である。
ナディアはリンドの優しさに感謝しつつも、個人的な事情が理由で店に穴を開けたくなくて、「大丈夫です」と言い続けていた。けれどこの頑固ジジイも、おおそうか、と言って素直に納得するような性格はしていない。
「そんなぼーっとした状態で会計でも間違えられたら店に損失が出る。家に帰るのが面倒なら二階で昼寝でもしてろ」と言われて無理矢理二階の従業員用休憩室に追い立てられてしまった。
リンドのあの様子だと下に降りて行ってもまた休憩室に戻されるなと悟ったナディアは、リンドの言葉に甘えて少しだけ休ませてもらうことにした。
本当は、これから先どうしたらいいのかと朝からいっぱいいっぱいの状態で、不安で溺れそうになっていた。落ち着いて考える時間ができたのはありがたい。
休憩室の中には茶器の入った棚にテーブルや椅子や、横になって仮眠が取れるくらいの大きさのソファなどがある。よろよろとソファに歩み寄ったナディアは、そのままバタリとソファに倒れ込むように横になった。
頭の中では、今朝の怪文書や犯人のことも考えたが、一番にはゼウスのことを考えていた。
自分の正体が明かされたらゼウスとは結婚できなくなる。
それどころか、ゼウスが『悪魔の花婿』ではないかと疑われる羽目になって、自分が処女であると証明できればゼウスは助かるかもしれないが、ナディア自身は処刑されるおそれがある。
今朝の怪文書事件は生きるか死ぬかの問題を孕んでいる。
自分の命だけを考えるなら、なりふり構わず全てを捨てて今すぐ首都から逃げるべきだ。
けれど、それはゼウスとの別れを意味しているような気がした。
いや、怪文書を投函した犯人に知られた時点で、既にゼウスとの幸せな結婚生活は露と消えている。
どうしてナディアの正体に気付いたのかはわからないが、犯人はナディアが獣人であることに確信を持っている。
犯人はきっとゼウスにも自分の正体を告げてしまうだろう。首都と南西列島は距離があるから今すぐにゼウスが「メリッサ」の正体を知りはしないだろうが、時間の問題だ。
(本当は獣人なのに人間と偽ってゼウスを騙していたことが知られたら、きっとゼウスに嫌われてしまって、何もかもがお終いだ……)
目尻に涙が溜まって、ナディアは手で顔を覆った。ゼウスと終わりになることを考えたら胸が締め付けられるように痛い。
(そんなのは嫌だ…… 愛しているのに…… 私の愛は全てゼウスに捧げたのに)
いっそゼウスの獣人奴隷になろうか。
一度は真剣に考えたが、その後考え直して選択肢からは外した案である。
しかしゼウスと別れずに済む方法が他に浮かばず、これしかないような気がした。
本当のことを言うのがとても怖い。けれどゼウスと別れたくないならば、一刻も早くゼウスに自分から獣人だと告白して謝罪することが必要だと思った。
もしもゼウスが、自分が本当は獣人であることも騙していたことも全て許して受け入れてくれるのならば、奴隷としてではあるが愛するゼウスと一生一緒に生きていけるのではないか――
ナディアはソファから上半身だけをムクリと起こした。
(リンドさんに、急で申し訳ないけれどゼウスを追いかけることにしたから店を辞めさせてほしいと言おう。エリーにも申し訳ないけれど……)
そこまで考えた時、下の店から騒がしい声が聞こえてきた。
「出て行け! お前たちは出入り禁止だと言っただろう!」
「何ですの?! いきなり怒鳴りつけるなんて非常識すぎるわ! 宗家第三位アンバー公爵家の姫に平民がそんな口の聞き方をしてよろしいと思っていらっしゃるの?!」
「知るか! 非常識はお前だろ! よくもうちの従業員を侮辱する手紙なんか送れたもんだな!」
「手紙? 何のことかさっぱりわかりませんわ!」
言い合いをしているのはリンドと、数日ぶりに店に現れたシャルロット・アンバー公爵令嬢のようだった――