78 「彼女」との別れ
ゼウス視点→ジョージ視点→ハロルド視点
発車一分前のベルが鳴っても、メリッサは姿を現さなかった。
ゼウスの足は動かない。出立する者たちが皆列車に乗り込んでしまっても、ゼウスはひたすら構内の入口に視線を向けている。
「ゼウス、もうそろそろ……」
見かねた姉のアテナがゼウスに列車に乗るように促してくる。
「次の休みにはきっと会えるわよ」
姉は悲しそうな雰囲気を醸し出しているゼウスの気分を上げようと、明るい調子で声をかけてくれるが、正直、いつこちらに戻って来られるのかは全くわからない。
「何やってんだエヴァンズ。置いてかれるぞ、乗れ乗れ」
列車の中から共に旅立つ先輩が声をかけてきた。もうすぐ発車してしまう。
(もう限界か。一緒に行く人たちに迷惑はかけられない)
「……行ってくるね、姉さん」
「うん、気をつけて!」
アテナは意気消沈しているゼウスの背中を数度叩き、気合いを入れるようにして弟を送り出した。
ゼウスが列車に乗り込むとすぐに入り口の扉が閉まる。再度ベルが鳴り響き、蒸気機関車がゆっくりとした速度で動き始める――――
「ちょっと待ってーーーー!!」
見送るアテナに手を振り返していたゼウスは、待ち望んでいたその人の声を聞き、ハッとしてすぐにそばの窓から身を乗り出した。
「メリッサ!!」
構内の入り口からノエルと共に駆けてくる愛しい人の姿が見えた。
ゼウスは笑顔になって、何だかちょっと泣きそうになってしまった。
列車は動き出したばかりでその速度は遅い。今ならまだ間に合う。ゼウスは最後尾の車両へと走り出した。
「ゼウス、ごめん! ごめんね! こんな大事な時なのに、遅くなっちゃって!」
最後尾の列車の窓を開けると、メリッサは既に追いついていた。彼女は泣いていた。
「いいんだよ、メリッサ」
ゼウスはすまなさそうに謝る彼女に首を振った。窓から手を伸ばして、メリッサの頬の涙を拭った。
「最後に会えてよかった。ちゃんと戻ってくるから、待ってて」
うん、とメリッサが頷く。ゼウスは限界まで身を乗り出し、彼女の唇に触れるだけのキスをした。
「メリッサ、愛してる」
「私も、ゼウス」
繋いでいた二人の手が離れる。
列車の速度が増す。構内の端まで走ってきてそれ以上進めなくなってしまったメリッサは、そこで止まった。
彼女の姿は小さくなって、やがて見えなくなった。
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支隊へ赴く部下の見送りに来ていたジョージ・ラドセンド一番隊長は、走り去ってしまった列車が消えた方向を眺めていつまでも佇んでいる少女の後ろ姿を、じっと――――ただじっと、見つめていた。
******
ハロルドが列車の最後尾に行くと、ゼウスはほとんど誰も乗っていない車両の中で、一人で席に座っていた。
ゼウスはすぐそばにある、開けられた窓の先の向こうにある空を眺めていた。
「……ゼウス」
声をかけると、そこでやっとハロルドの存在に気が付いた様子で、ゼウスがこちらを振り向く。
「どうした? ハル?」
寂しそうな空気を纏いながらこちらを振り向いたゼウスの目が少し赤い。泣いていたのかと思ったら、胸がツキリと傷んだ。
(おかしいな。応援するって決めたのに)
「……部屋に、戻らないのかなと思って…………」
赴任する隊員たちは列車に乗ったまま二晩ほどを過ごす。貸切である列車の中、それぞれ気に入った寝台室を自由に利用して良いことになっていた。
相手が気落ちしている状態なのに、声をかける内容が部屋に戻らないのかどうかだなんて、気の利いたこと一つも言えない自分の無力さが悲しい。
けれどゼウスは、少し照れ臭そうにしながらハロルドに微笑みを返してくれた。
「……ほら、今こんな顔だからさ。アラン先輩に見られたらまたからかわれそうだし、少し時間を置いてから戻るよ。朝も早かったし、ハルは先に戻って休んでなよ」
寝台室は二人部屋と四人部屋があり、貸切のために部屋は余分にある。最初はゼウスに誘われて四人部屋を二人で使おうという話になっていた。
ところが、ハロルドとゼウスが一緒の部屋で過ごすことを聞きつけたアランが、「何で俺を除け者にするんだよー、俺も混ぜろよー」とぶーぶー文句を言い始めたことにより、結局三人で四人部屋を使うことになった。
アランは一足先に部屋で休んでいるはずだ。
「う、うん…… それじゃ、先に行ってるね」
やはり気の利いたことは何も思い浮かばなくて、ハロルドは気落ちしながら自分たちの寝台室へと向かった。
「ちょっと…… アラン先輩……」
寝台室の扉を開けたハロルドは、部屋の有様を見て少しだけ驚いた声を出した。
それぞれの荷物は持ち主別にわかるように置かれていたはずだが、アランの荷物のいくつかが既に開けられ、二つある二段寝台のうちの片方の下段に中身がぶちまけられている。
「三人で使うんですから、もう少し綺麗に使ってくださいよ」
(ロッカーもごちゃごちゃだったけど、部屋の使い方もやっぱりごちゃごちゃ……)
「いやー、悪い悪い。俺のお気に入りのアイマスクをどこに入れたのかわかんなくなっちゃってさー」
アランは気安い先輩なので物言いもしやすい。声をかけると、上段で横になっていたらしきアランがむくりと上体を起こした。
「少し荷物の整理をした方がいいかもしれないですね。列車の中で使うものと使わないものに分けて、いらないものは隣の部屋にでも入れておきますか」
「えー、そんなの後でいいじゃん。俺はとりあえず眠いから一眠りしてからにするよ。おやすみー」
「えっ、せめてぶちまけた荷物を片付けてからにしてくださいよ」
「ぐうぐう」
「『ぐうぐう』って、口でイビキを表現しながら寝る人はいませんよ」
返事はなかった。再度「先輩」と呼びかけてみても梨のつぶてだった。一つため息を吐き出したハロルドは仕方なく、広げられたアランの衣類などを畳んでひとまず元の鞄の中に入れた。
「わあ、ありがとうハル! お前はきっといいお嫁さんになれるよ」
荷物を全て入れ終わった所で、丁度よく、アランが上の寝台から逆向きで顔を覗かせてきた。
「起きているなら自分でやってくださいよ……」
良い用に使われたと理解したハロルドは再びため息を吐いた。
「それにしてもやっぱりこんなに荷物があるのに三人で一部屋は狭いかもな」
アランは話をはぐらかしてくる。
「文句があるなら先輩は一人で一部屋を使えばいいじゃないですか」
「俺はそれでもいいけど、困るのはお前なんじゃないの?」
一瞬言われている意味がわからなくて、ハロルドはアランの翡翠色の瞳を見返した。
「ゼウスと二晩一緒で大丈夫?」
「……」
ハロルドは無言になった。自分の思っていることがアランには筒抜けだったのだろうかと、頭が真っ白になってしまう。
「何で二人で一緒の部屋を使うだなんて了承したんだ? 断れば良かったのに」
「……それ、は………… だって、ゼウスが一緒の部屋にしようって言うから…………」
言葉が尻すぼみになってしまう。アランの言う通り、ゼウスに思う所のある自分は、彼と一緒の部屋になるだなんてことは避けるべきだったのかもしれない。
「まあ二晩は俺もいるから、あんまり気にするな」
黙ってしまったハロルドに、アランは茶化すでもなくそう言ってから顔を引っ込めた。
「先輩…… あの……」
「別に誰にも言わねえよ。あいつ自身にもな」
ハロルドの気持ちを先回りしてアランがそう告げてくる。言われてハロルドは少しだけほっとした。
ややちゃらんぽらんに見える先輩だが、ハロルドはアランのことを少し頼もしく感じた。
「アラン先輩、ありがとうございます…… でも、俺の気持ちはわかるのに、なんで彼女さんの気持ちわかってあげられなかったんですか?」
「うっ…… それを言われてしまうと、流石の俺もぐうの音も出ない……」
しばしの沈黙の後、上段に寝転んだままのアランが口を開く。
「一応さ…… 人に頼んで出立のことは伝えてもらったんだけど、彼女は来なかった。完全に終わったな」
「先輩……」
「なので傷心の俺はフテ寝します。朝飯の時間になったら起してくれ。おやすみー」