7 姉に似た人
「ただいまー」
夕方に近い時間帯になると時々学校が終わったエリミナが古書店に現れた。彼女は用事がない日は学校からこの店に直行してリンドを手伝っているらしい。エリミナはリンドの孫だが普段は別に暮らしていて、サングスター商会という人間社会ではわりと有名な商会を営む富豪の一人娘だった。
リンドは店の二階で一人暮らしをしているが、エリミナはここから少し離れた首都中央区に自宅があってそこで両親や使用人たちと暮らしているらしい。
だいたい夕飯の時間帯前くらいになると屋敷の使用人が馬車で迎えに来るのだが、その馬車がまた旧王族でも使いそうな意匠の凝ったかなり豪奢な馬車で、エリミナの実家が大富豪なのだという一端が伺える。
エリミナの母親がリンドの一人娘で、エリミナの父親と共に商会を起こしてそれが大成功したという話だった。
リンドはいつも怖い顔をしていてとっつきにくそうな雰囲気を醸し出しており、また仕事に関してはこだわりも持っている。ナディアは本を売る時の会計は任せてもらえるようになったが、古書の買い取りに関しては「お前のようなひよっこに任せられるか」と言われて一度もやったことがない。
以前長く勤めていた人が腰痛を理由に辞めてしまった後、代わりの人を探していたがなかなか長続きする人がいなくて困っていた所を、メリッサが来てくれて助かったとエリミナは言っていた。
「おじいちゃんったら前に万引き犯を捕まえて縄で縛ってお店の軒先に吊るしたことがあってね。顔が怖いのも手伝ってここのお店には最恐鬼ジジイがいるって評判がついちゃったのよ。そのせいで働こうとしてくれる人もあんまりいなくて」
「へえ。でも私リンドさんはあんまり怖くないけど。結構優しいよね」
軒先に吊るされたのは吊るされるほどのことをした方が悪いと思うし、リンドはナディアが学校に通ってないことを気にしてくれているようで、売れ残りの学校用の教科書をぶっきらぼうに「いらないから持っていけ」と譲ってくれたり、「馬鹿と言って悪かった」と初日の出来事を謝ってくれたりした。
「メリッサみたいにおじいちゃんを怖がらない人が見つかって本当に良かったよ。私も学校を卒業したら婚約者と結婚しなくちゃいけなくて、今も花嫁修業が始まっててお店を手伝える日も限られてきてたから助かるわ」
花嫁修業といってもだいたいのことは使用人がやってくれるので、その多くが教養を身に付けるための習い事とか、社交界に出ても恥ずかしくないようにマナーだとかダンスだとかそういうものらしい。
エリミナの婚約者は三歳上の父方の従兄で、ゆくゆくはその従兄が商会を継ぐことになっているそうだ。
エリミナはナディアより二つ年下の十二歳だが、人間社会では十四歳からが成人でそこから結婚も認められている。獣人に奪われないように人間たちは早くから婚約を結んだり婚姻したりするらしい。
従兄は優しいし嫌いじゃないけど、本当は他にやりたい事があるんだ…… とエリミナは少し残念そうに声の調子を落としながらナディアに告げる。
エリミナが見せてくれたのは通学鞄から取り出した一冊の服飾雑誌だった。エリミナが開いた頁には、化粧をばっちりと施して綺麗な洋服に身を包み、子供らしい雰囲気を一切消し去って妖艶に微笑むエリミナがいた。
「これは……」
写真のエリミナはとても綺麗だった。ナディアではどう転んでもこんな風にはなれない。
「モデルよ。前に街でスカウトされたことがあってその時に撮ったものなの。私、アテナ様みたいなモデルになるのが夢だったの」
「アテナ様?」
ナディアは首を傾げた。
「あれ? 知らない?」
エリミナは驚いたように言ってから雑誌の別の頁を繰り始めた。
「ほらこの人。すごく綺麗でしょ? スーパーモデルのアテナ様よ」
ナディアは食い入るようにエリミナが指差す写真の人物を見つめた。その金髪碧眼の美しい女性はどことなく、あの異母姉に似ている。
「アテナ様はハンターもやっててね! 悪しき獣人からみんなを守る強く美しく気高い女性なの! 私もあんな風に自由に生きたいなあ」
身振りまで付けながら瞳を輝かせてアテナ様を語る口調には熱が籠もっていて、エリミナはアテナ様にとても憧れているようだった。
黒髪を金髪に染めているのもアテナ様と同じ髪色にして少しでも近付きたいからだと言っていた。
自分に持っていないものを持つ相手に憧れる気持ちは良くわかる。
(私もあの姉のように、美しい顔で生まれてきたかった)
けれど自分はエリミナのように相手を好意的に捉えることはできず、むしろ嫌悪した。
姉が父のことで苦しんでいることは知っていたが、その美しい顔のせいでそうなったのだと思えば少しは胸のすく思いがして、自分はこの醜い顔のおかげてあんなことにならずに済んで良かったと、姉と対極に位置する自分を肯定して慰めていた。
しかし、里を出て見えてくるものもある。
里の中にいた頃は少なからず父が絶対であるという意識があり、父が姉を女として見ているのは父が望むのであれば仕方のないことだとある部分本気で信じていた。それは他の里の者たちも同じだったはずだ。族長の意向は絶対だと。
けれど人間社会にやって来て父との距離ができて、里にはもう二度と帰ることもないのだと思うと、時間の経過と共に少しずつ父の考え方とも距離ができるようになった。
リンドは仕事には厳しいが決して暴力を振るうことはない。ここでは上の者の意に逆らったからといって殺されてしまうこともない。クビにされてしまうことはあるかもしれないが、命までは取られない。ここでは自分の本来の考えを心の中で殺す必要はない。
父親が実の娘を女として見ているだなんて異常だ。吐き気を催すほどに。
姉はまだあの地獄の中にいる。姉を避け続けて手を差し伸べなかった自分は、本当に正しかったのだろうか。
苦しむ姉を見て心の安寧を得ていたなんて最低だ。自分は容姿だけではなく、もしかしたら心まで醜かったかもしれない。
「アテナ様は獣害孤児で肉親は弟のゼウス様だけなの。アテナ様は両親だけではなくて婚約者までも結婚式直前に獣人に殺されて、一時期血を見るのが全く駄目な時期があったのだけど、でもそれを克服して前を向いてしっかり生きていて強いなあって思うの。雑誌の中のアテナ様はそんな悲しい過去を感じさせないくらいにいつも笑顔で素敵で、私もあんな風になりたいなあ」
獣害孤児とは親を獣人に殺されて孤児になってしまった子供のことを指す。
「今はアテナ様と同じくモデルでハンターをやっている仲間が、アテナ様の新しい恋人になっているわ。すごいイケメンよ。
それにアテナ様の弟のゼウス様もお姉様によく似た顔立ちをされていて神がかったイケメンなのよ。ゼウス様は銃騎士隊に入れるほど強くて優秀で、今は銃騎士隊一番隊に所属されているわ。美の化身のようなアテナ様も神々しいけれど、ゼウス様もとても凛々しくて最高に格好良いのよね……」
エリミナはそこでうっとりとした視線を空中に向け、ほうっと吐息を零した。エリミナの話はアテナ様語りからイケメン語りへと話が変わって行く――
「あんな人と結婚できたら絶対に幸せよね。きっと毎日アテナ様に会い放題だわ」
話の内容がイケメンの話題に変わるのかと思えばそうでもなく、結局はアテナ様の話に戻る。エリミナの主眼はあくまでもアテナ様であるようだった。
ナディアは獣人であることを隠していることと、まだ人間社会のことをよくわかっていない部分も多いために、自分から話せる話題も少なく、エリミナといる時はだいたい聞き役に徹していた。
「――――でね、お母様は可愛いって褒めてくれたけど、お父様はそんなものは思い出作りくらいに留めておくべきもので、本気でやるようなものじゃないなんて言うのよ? 年を取ったらできなくなるような不安定な仕事だって。それでも私はアテナ様みたいなモデルになりたいなって思って、もっとお仕事も続けていきたいなって思ってたんだけど、結局お父様の手が回ってこれっきりってことになっちゃったの。
アーくんにも、これで最初で最後にしてくれって泣かれちゃって。何だか私の写真が世の中に広く出回るのが嫌みたいなんだけど、アーくんは私の写真を自分の部屋にたくさん飾っているくせにおかしいのよ? 私のことを誰にも見せたくないんですって。
でもアーくんの望みを叶えようとしたら一歩も外に出られないじゃない? その時はそんなの無理って大喧嘩になったわ…… 私もお父様にモデルの仕事を無くされた直後だったからちょっと感情的になってて、つい、アーくんとなんか結婚しないって叫んじゃったんだけど、そうしたらアーくんが気を失って倒れちゃって、お医者様を呼ぶことになって大変だったわ。
その後ちゃんと仲直りはしたけど、でもアーくんって私のことが好きすぎるみたいで、ちょっと重いのよね」
『アーくん』というのはエリミナの婚約者のことだ。『アーくん』の話を聞いているとちょっと頼りなさそうな人物のように思えてくるので、結婚相手として大丈夫なんだろうかと思う。
『アーくん』とはまだ会ったことがない。エリミナには今度紹介するねと言われた。