76 予知夢?
「メリッサ・ヘインズ! 俺は君との婚約を破棄する!」
隊服姿のゼウスが目の前でそう叫んでいる。ゼウスの表情にはどこか悲しさが滲んでいた。
「な、んで……」
ナディアは二の句が継げなくなっていた。自分が獣人であることがゼウスにばれてしまったのだろうか――
「すまない! 君を愛していたのは本当だった! 君こそが俺の運命だと思った! しかしそれは間違いだった! 俺は南の島で本当の運命に出会ってしまったんだ! 彼女こそが俺の真の人魚姫だったんだ!」
そう言ってゼウスは背後を振り返った。周囲にはヤシの木や南国の花々が咲き誇っていたが、ゼウスのすぐ後ろには急に海が広がっていて、砂浜があるはずの場所にお花畑が広がっているというおかしな立地だった。
ザッパーン! と一際大きな波が打ち寄せて、その波に乗り巨大な真珠貝がゼウスの隣まで滑る様にやって来る。白い貝が開くと、中にいたのは上半身がほぼ裸で胸だけを白い貝殻で隠した、シャルロット・アンバー公爵令嬢だった。しかも下半身は魚である。
あるはずのない光景にナディアがポカンとしていると、人魚になったシャルロットは魚の下半身で器用に立ちながらゼウスの隣に寄り添った。ゼウスに腰を抱かれながら、ゼウスの腕を取ったシャルロットは勝ち誇ったような笑みをナディアに向けてくる。
「やはりあなたみたいに冴えない容姿の女ではゼウス様には到底釣り合いませんわ。ゼウス様が最後に選ぶのはこの私よ」
顔だけは可愛らしいシャルロットがこちらを見下すようにして告げてくる。
確かに顔はナディアよりもシャルロットの方が美人だ。容姿にコンプレックスのあるナディアは、もしもゼウスが自分ではなくてやはり美人を選びたいと言うのなら、悲しいけれど彼の意見を尊重してもいいと思っている。
そもそもナディアは獣人だ。他に一緒になりたい人間女性がいるのなら、その人と結婚した方が絶対に上手くいく。
(でもシャルロット様は駄目。できれば他の女性にしてほしい。だってシャルロット様は――――)
「シャルロット様は他に良い仲の男性がいるではないですか! その相手と別れたのならまだしも、ゼウスとその人と二股するつもりですか!」
ナディアは嗅覚でシャルロットに特定の男性がいることを知っていた。例外はいるが、番になれば基本一夫一妻制の獣人の感覚からすると、同時進行はありえない。
「何のことかしら? オホホホホ」
しかしシャルロットがそれを認めることはない。
「シャルロット、それは本当?」
ゼウスが心配そうな顔になってシャルロットに問いかけている。
「そんなことないわ。諦めの悪い元婚約者さんがでっち上げた嘘よ」
(噓じゃない! 他のことでは結構嘘はついているけど、シャルロットに現在進行形で男がいることは本当だ!)
「そうだね。シャルロットと俺はこんなに愛し合っているのだから、俺たちの間には誰も入り込めないよ」
「ああ、ゼウス様……」
見つめ合う二人の顔が近付いていく。ナディアは二人の唇が重なり合うのを阻止するべく駆け出そうとしたが、なぜだか足元の地面が沈んで、ズブズブとナディアの膝下までを飲み込んでしまい、その場から一歩も動けない。
「いやー! やめて!」
いくらゼウスの考え方次第では身を引いてもいいと思ってはいても、目の前で他の女の子に口付けている場面なんて見たくない。
ナディアはぎゅっと目を瞑り両手で顔を覆った。暗闇に包まれたその途端、周囲の全てが掻き消えた。
愛し合うゼウスとシャルロットの気配も、波の音も、何もかもが消えてしまう。
「ナディア…… ナディア……」
真っ暗闇の中に佇んで身動きの取れなくなっていたナディアの耳に、オリオンの声が聞こえてきた。元の姿の時の美しい声だ。
目を開けると自分はどこか知らない部屋の寝台に寝かされていた。すぐそばに白金髪の凄絶な美しさを持つ姿に戻ったオリオンがいたが、酷く痛々しいものを見るような表情でこちらを見ていた。
オリオンが悲しんでいる。
それはそうだろう。自分はオリオンの気持ちを知りながら他の男性に恋をして、最後の一線こそは超えていないがそれなりの行為をしてきた。ゼウスとのことを知ったらオリオンが傷付くことはわかっていた。だからオリオンが戻ってきたらちゃんと話をするつもりだった。
けれど寝台に横たわる自分の身体はとても重くて、口を開くことが酷く億劫だった。
「起きてください! ナディア!」
オリオンの顔をぼうっと見上げながらいつしか目を閉じてしまったナディアの耳に、オリオンの――――いや、オリオンの地声に似てはいるが少し声質の違う美声が響いた。
ぱちりと目を開けたナディアの視界に入ってきたのは、超絶美形オリオンによく似た、しかしまだ幼さも垣間見える超絶美少年ノエルの顔だった。白金髪に灰色の瞳のオリオンとは違い、ノエルは灰色の髪に碧眼なので、兄弟でも色彩が違っている。
この部屋で寝起きにオリオンの顔を見たことはあったが、ノエルの姿を見るのは初めてだった。
「……あれ? なんでノエルがここに?」
「もうすぐゼウスの乗る列車が出発してしまうのですが、あなたが現れる気配が全くないので、もしやと思い迎えに来たのです。許可なく女性の部屋に侵入してしまったことは申し訳ありません」
「列車が出発する!?」
半分寝ぼけた状態で問いかけたナディアは、ノエルの言葉で一気に目が覚めた。まさか寝坊してしまったのかと枕元の時計に目をやるが、時計の針はもうすぐ四時五十分を指そうかという所だ。
「何だ、五時前じゃない。とんでもなく寝過ごしたのかと思ったわ」
「何言ってるんですか、五時には列車が出発してしまいますよ!」
ナディアはとても驚いた顔をした。
「えっ? 列車が出るのは七時でしょう?」
「最初は七時だったそうなのですが、そのあと出発時刻が早まって五時になったと…… まさか何も聞いていなかったのですか?」
「嘘っ! あと十分しかないじゃない!」
ナディアは慌てた。しばらく会えなくなるのに出立の見送りにも行けないだなんて、そんな殺生な。
「何かの手違いで連絡が漏れてしまったのかもしれませんね。とにかく急い――――」
ノエルは言葉を止めた。ノエルがそばにいるのに構わずナディアが着替えようと寝衣を脱ぎ始めたからだった。
下着で覆われている部分以外のナディアの滑らかな肌が顕になる。豊かな胸に加え、丸みを帯びて卑猥ささえ漂う臀部とは対照的に、締まる所は締まって均整の取れた肢体が扇情的だった。
わずかに頬を赤らめたノエルはさっと視線を逸したのちに後ろを向いた。
「準備ができたら私の魔法で飛びます。周囲に転移魔法を見られたくないので転移先は少し離れた所になります。支度はどのくらいで終わりますか?」
「軽く化粧だけするから五分、いや三分頂戴!」
高速で着替えだけを済ませたナディアが鏡台に向かいながらそう叫ぶ。
急ぐナディアは、ゼウスが自分を捨てて他の女の子を選んでしまうという悲しすぎる夢のことについては、何となく覚えていたが、その次に見た夢が何だったのかは、思い出せなくなっていた。