6 古書店の孫娘
ナディアはオリオンが不在にしている隙に首都の職業斡旋所を訪れ、そこで古書店の店員の求人を見つけた。本を扱う店なら、唯一と言ってもいい読み書きが出来る特技が生かせるかもしれないと思ったのだ。
休日やお給料などの条件は良いが、求人が出された日付はかなり前だ。定員は一名なのですぐに埋まってしまってもおかしくはないのにと不思議に思いながら斡旋所の職員に聞けば、職員曰く店主が気難しいらしい。
これまで何人か採用されたがすぐにやめてしまった。店主は毎回申請して求人を出し直すのも面倒だと言っていて、古いままの求人が下げられずにずっと出しっ放しになっているそうだ。
面接の日時を取り付けてもらって首都の一角にあるその古書店に向かうと、なるほど出てきたのは眉間に皺が刻まれ、眼鏡の奥の眼光鋭くこちらを睨む痩せぎすで不機嫌そうな老人だった。
「あんたか。じゃあ早速仕事を覚えてもらう」
老人はリンド・ウィンストンという名前だった。リンドはナディアが斡旋所の職員に書き方を教えてもらった履歴書――内容はほとんど出鱈目なのだが――を受け取りもせずに地下にある書庫へとナディアを連れて行った。
二階建ての古書店の建物はレンガ造りだが内装には木材も使われていて、地下に続く扉も木製だった。階段の手すりや地下にある本棚の多くに木材が使われている。
この店は古書店だが新書の取り扱いもあるそうで、リンドは大量の本を前に在庫の管理や注文の仕方などの仕事内容をいきなり話し始めた。これは面接をすっ飛ばして即採用ということのようだが、採用してくれるならそれはそれでありがたい。ナディアはリンドが話す仕事内容を忘れないように筆記具で紙に書き付けていく。
「あとこれは一番大事なことだが、この棚にある本は売り物じゃないから店には並べるなよ」
リンドが示すのはナディアの頭くらいの高さで幅も他の本棚より一際小さめだが、しっかりとした造りの金属製の本棚だった。本棚には、年代的にかなり古そうで紙が黄ばんでいるような年季の入った本が多く入っている。
「ここにあるのは歴史的価値の高い貴重な本ばかりだ。万一破損することがあればお前クビだ」
「わかりました」
リンドは常にこちらを睨むような顔をしていて威圧的な態度を崩さないが、里ではもっとガラが悪くて暴力的に振る舞う者はいくらでもいた。ナディアにとってはこのくらいはどうということもなかった。
面接に行っただけで採用となり、仕事も教えてもらって順風満帆な滑り出しかと思えたが、そう上手くは行かなかった。
お客さんが来たので会計をするように言われたが、ナディアは読み書きはできるが計算ができない。一桁や十、二十などのきりのいい数字での足し算引き算くらいはわかるが、本には定価しか書かれていないので、税率を掛けて売値を出さねばならないし、さらに客からもらったお金から売値を引いてお釣りを渡さなければならない。
店では珠盤と呼ばれる小さな棒に白い石が数個突き刺さったものがいくつも並んでいる計算器具を使って金額を出していたが、そんなものの使い方はもちろん知らない。
結局リンドを頼るしかなく、お釣りをいくら渡せばいいのかわからないと言うとかなり驚かれた。珠盤の使い方がわからないので教えてほしいと言うと、そんなものは学校の初等科で習ったはずだろうと取り付く島もない。
その後もお客さんが会計に来る度にリンドが対応するしかなく、ナディアはリンドにその都度盛大にため息を吐かれた。
ナディアはこのままではクビになると思ったが、そこに救世主が現れる。
「おじいちゃーん、ただいまー」
元気溌剌な声が聞こえてきた方向に目をやれば、長い金髪をツインテールにした、ナディアよりも一つか二つほど年下に見える美少女が店の入り口に立っていた。彼女の薬指には指輪がある。
(ま、負けた…… 美しさで人間に負けた……)
ナディアは愕然としたように少女を見つめた。
少女は大きな黒い瞳をしていて白い肌との対比が印象的だった。色も形も良い唇の口角を上げて笑う表情は華やかで子供とは思えないほどに美しい。
ただ、前髪の根元のほんの一部が金髪ではなく黒髪だったので、少女は黒髪を脱色した上で金色に染めているのだろうと思った。だが髪の色がどうだろうと彼女が美しいことに変わりはない。少女が来ている服も質が良く意匠も洗練されたもので、ナディアには少女の後ろから後光が差しているかのように眩しく見えた。
「エリー、来たか」
リンドが少女に声をかける。心なしかリンドの声も表情もナディアと対する時よりは柔らかい気がする。
通学用の鞄を背負った少女がナディアのそばまで来てペコリとお辞儀をする。
「初めましてこんにちは。エリミナです。エリーって呼んでね。今日からよろしくお願いします」
「だがこいつは使えん。今日でクビだな」
クビの言葉にナディアの顔色が陰る。
「え、ちょっと待ってよ。まだ初日でしょ? せっかく来てくれたのにそんな風に判断をするのは早いよ」
「計算もできないような馬鹿はいらん」
「計算?」
エリミナに首を傾げながら視線を向けられて、ナディアは正直に答えた。
「その、珠盤の使い方がわからなくて……」
「珠盤? 学校で習わなかった?」
「学校は行ってないから……」
言ってしまってからしまったと思った。人間は子供のうちに学校に通うのが普通だ。ここで学校に通っていないことを怪しまれて獣人だと悟られるわけにはいかない。
「行ってないとはどういうことだ? お前の親はお前を学校には行かせなかったのか?」
口を挟んできたのはリンドだ。どうしようと思いながらも頭を回転させて言い訳を捻り出す。
「ええと、うちの父親がちょっと特殊で学校とかは必要ない主義というか、学びたければ勝手に自分でやれっていう感じというか、とにかく学校に通える環境じゃなかったもので……」
(うん、大丈夫。嘘は言っていないぞ)
今思えば学校に通ったと書いてある嘘だらけの履歴書を見られなくて良かったかもしれない。
「学校に通うのは子供の権利だ。そんな酷い親がいるのか?」
リンドが険しい顔をさらに険しくしてくる。エリミナも華やかな顔を暗くしてナディアを見ていた。
「そっか、お姉さんは今までずっと苦労して生きてきたんだね」
(うーん、苦労は、したようなしてないような)
返事に困っていると、「大丈夫だよ!」とエリミナが明るい声を上げた。
「知らないのならこれから勉強すればいいだけだよ! こっちに来て! 珠盤の使い方なら私が教えてあげる!」
ナディアが何か言うよりも早く、エリミナに腕を掴まれて店の奥へと引っ張られていく。
エリミナの強引さにやや驚きながらも、ナディアは促されるまま彼女に付いて行った。
「ほら、おじいちゃん、どう? メリッサは馬鹿じゃないわ。やればできる子でしょ?」
エリミナとリンドには『メリッサ・ヘインズ』と偽名を名乗っていた。
二階の部屋に連れて行かれた後、通学鞄の中から取り出されたエリミナの小型の珠盤を元に、とにかく店で使う税率のかけ方と足し算引き算をみっちり教えてもらった。
ナディアは珠盤を使った計算方法を頭に叩き込んだ後、エリミナに問題を作ってもらってそれを次々と解いていった。珠盤は使い方がわかればそれほど難しくもないように感じられて、ナディアは問題を解いていくうちに段々とそれを面白いと感じるようになっていた。
一通りやり終えた後に一階に降りてくると、ちょうどお客さんが会計をする直前で、リンドの代わりにナディアが対応させてもらった。
本の税込み価格を計算してもらったお金を引いてお釣りを渡す。最後まで間違いなく対応することができたナディアを見たエリミナは、どんと胸を張り、「どうですか私の生徒の出来栄えは?」と自信に満ちた発言をしたのだった。
一見厳しそうなリンドもエリミナには甘いようで、「そうだな」と言いながら目元を和らげてエリミナの意見を受け入れている。
首の皮一枚繋がったナディアは、こうして翌日からも古書店で働かせてもらうことになった。