62 雨の日
「じゃあ、今日は帰るね」
「あ…… そうなんだ……」
ゼウスとのデートの帰り道、以前だったら二人はそのままホテルに直行していたが、ジュリアスとの話し合い以降、ナディアはそういう行為を避けていた。
ゼウスは明らかに落胆している。それはそうだろう。デート終わりに二人きりになるのを避けるのはこれで十回目だ。
初めて肌を触れ合わせて以降、ナディアは坂道を転がり落ちるようにゼウスとの行為に耽溺していた。
ただしまだ番にはなっていない。「私は人生でたった一人の人としかそういうことはしたくないけど、まだ覚悟ができてないから」と最後の行為だけは拒んでいた。一度ならず何度も何度もそんな理由で拒んでいたら普通別れることになってもおかしくはないと思うが、重い男ゼウスはこのくらいのことでは絶対に別れないと言い張っていた。ナディアがその気になるまでいくらでも待つと。
そうは言っても二人でイチャイチャすること自体を避けるようになった影響だろう、ナディアが「帰る」発言をしてから街道を歩く二人の雰囲気はぎくしゃくしている。
仕事が忙しいだとか月ものだとか理由を捻り出すこともできたが、これまでの九回で繰り返し使ってきたので、流石にそう何度も同じ理由を言うのは苦しい。
「……俺のこと嫌いになった?」
やや暗い雰囲気をまとったゼウスが悲しそうに聞いてくる。
ナディアはぶんぶんと首を振った。
「そうじゃないの、そうじゃなくてね、ええと、今夢中になってる本の続きが早く読みたいから、今日はこのまま家に帰りたくて」
「何てタイトルの本?」
「う、ううんと、恋愛ものなんだけどね、ちょっと恥ずかしいタイトルだから、ひ、秘密よ」
ゼウスとのデートを早く切り上げてまで読みたい本などないのだが、問われれて本の題名が咄嗟には思い付かず、ナディアはしどろもどろといった様子で返事をした。ゼウスは硬い表情になっている。何か適当に本の名前をでっち上げれば良かったとナディアは後悔した。
二人は無言のまま馬車の停留所に止まってオリオンの家がある方面の馬車が来るのを待つ。ゼウスの家があるのは別方向なので、ここでお別れだ。
馬車がやってきて他の人に続いて乗り込もうとすると、腕を掴まれた。
「メリッサ、今日はどうしても一緒にいたい。駄目?」
振り向けば悲しそうな顔をしたゼウスに懇願される。
ナディアは一瞬言葉に詰まってから、首を振った。
「ゼウス、ごめんね……」
それ以上の言葉が出てこない。
ナディアはゼウスを振り切るようにして馬車に乗り込んだ。
幌が天井に張られた大きめの馬車の中は以前襲われた時のようにがらんどうではなく、今乗り込んだ人も含めて何人か乗っている。ナディアは空いていた席に座った。ナディアの視線の先には何かを訴えるようにこちらを見ているゼウスがいる。
馬車が動き出したので、ナディアはゼウスから視線を外した。それでも気になってしまい、少し走ってからゼウスがいた方向を振り返る。
ゼウスは停留所の乗降場から少し離れた場所に立ったままだった。ゼウスが乗り込むべき方向の馬車が来る。ゼウスは道を挟んだ反対側へ移動する様子もなく、ただじっとナディアが乗る馬車を見つめていた。佇んでいるその様子は今にも崖から飛び降りてしまいそうに見えた。
(このまま、このまま自然消滅みたいな形でゼウスと別れることができるのであれば、わざわざジュリアスの手を借りる必要もない……)
ナディアはずっと悩んでいた。オリオンとのことは脇に置いておくとしても、結論としては、このまま獣人である自分が人間であるゼウスと交際を続けることはやはり良くない。彼の人生そのものや命まで潰してしまう。
一時期は奴隷になることが全ての問題を解決できる最終手段のように思っていたが、そもそもゼウスに獣人だと打ち明ける勇気もなかった。
それに、もしかしたらゼウスが他の女の子と懇ろにしている様子をそばで見ていなければいけなくなるかもしれない。そんなの耐えられない。
父の番たちは父が女を取っ換え引っ換え抱いていても文句の一つも言えずに、悲しみや怒りや恨みを抱えたまま鼻を焼いてただ耐えているしかなかった。ナディアは彼女たちの様子をよく見ていたからその辛さはわかる。自分もそんな風になるのは嫌だった。
(ゼウスと別れて、リンドさんやエリーには申し訳ないけど仕事も辞めて、ジュリアスに頼んでどこか遠くの場所に引っ越そう)
そう思ってナディアはこれまで幾度かデート中に別れを切り出そうとしたが、結局言い出せなかった。
けれどナディアが明らかにゼウスを避け始めたことに、彼も気付いている。
(ああ、もしかしたらこのまま終わってしまうのかもしれない――――――)
ナディアが馬車に乗り込んだ後からずっと、ゼウスはその場から一歩も動かずに立ち尽くしているようだった。
ナディアはその様子を少し離れた曲がり角にある建物の影に隠れて見ていた。
このままゼウスと駄目になると思ったら居ても立っても居られなくなってしまって、結局ナディアは次の停留所で降りて、引き返してきてしまった。
ゼウスは別れた時と同じ場所に立っていた。
戻ってきたはいいものの、どう声をかけたら良いのか迷ってしまい、思わず距離を取って隠れてしまった。少し様子を見ていたが、動く気配は微塵もない。
道路の向こう側を何台か馬車が通り過ぎて行ったが、近付いて乗り込もうとする気配も全くなかった。ただ物憂げな表情で虚空を見つめているばかりである。
ぼーっとしていてもゼウスは人目を引くので、道行く女性たちに声をかけられていた。ナディアは最初その光景を見て嫌だなと思ってしまったが、ゼウス自体が女性たちには全くの無反応なので、心配になってきてしまう。
思わず近付いて、しっかりして! と言いたくなってしまう。でも駄目だ。突発的に次の停留所で降りて戻ってきてしまったものの、自分とゼウスは別れるべきなのだから、自然消滅を狙えそうなこのままの状態を保つべきなのだ――
でも心配だからと、せめてゼウスが帰ろうとして馬車に乗り込むくらいまでは見守ろうと思ったのに、ゼウスが全然帰らない。
なんだか根性比べのようになってきてしまった――
しかもこういう時に限って雨が降ってきたりする。
時刻は夕刻よりも少し早い時間帯。元々曇り空だったものが段々とより暗くなってきて、ぽつぽつと空が泣き始めた。
雨足が強くなってもゼウスはその場に立ち尽くしたままだ。最近は春の盛りを迎えて暑いくらいの日もあるが、太陽が雨雲に隠れてしまえば少し肌寒い。
ふと、ゼウスが動いた。手を動かして前髪をかき上げ、金色の髪が含んだ雨水を落とす。
ナディアはその仕草にどきっとした。全身がずぶ濡れになったゼウスは、あの日、ナディアを滝から助けてくれた時と同じだった。一緒にお風呂に入った時にナディアを抱き寄せて口付けたり、寝台で濡髪のままナディアに愛を囁いて押し倒して来たりする時と同じ。
ナディアはふらりと足を踏み出した。近付いてはいけないことはわかっているのだが、この身が滅んでもいいから彼と一緒にいたいと思ってしまった。
(負けた。この根比べ、私の負けだ)
雨音に掻き消えてナディアの靴音はわからないが、雨のせいで人気の少なくなった往来で、傘も差さずに歩く少女の姿は目立つ。
ゼウスはナディアの姿にすぐに気付いて、驚いた顔をしながらもナディアの元に駆けてきてくれた。
「どうしたの? 忘れ物? ずぶ濡れじゃないか」
自分だってびしょ濡れのくせに、道で女の人に声をかけられても無反応だったくせに、ナディアを前にしたゼウスは心なしかニコリと嬉しそうに微笑んでいた。
「…………なんで帰らないのよぉっ!」
ナディアはいきなりそう叫んでキッとゼウスを睨みつけたが、ゼウスは戸惑っている様子を見せるだけだ。
「え…… あ、ごめん。ついぼーっとしてた」
「さっさと帰ればいいのに! 身体中びしょ濡れじゃないの!」
ナディアは叫ぶとゼウスの首に手を回して抱きついた。ゼウスはナディアの行動に驚いている。
「メリッサこそどうしてここにいるの? 帰ったんじゃなかったの?」
「あんな目で見つめられたら帰れないわよぉっ! こんな所に一時間以上も突っ立ってて! 馬鹿じゃないの! 馬鹿馬鹿! 好き! 好き好き! 大好き!」
ゼウスはあまり状況が飲み込めていない様子で瞬きを繰り返している。
「え? もしかしてずっと見――――」
ゼウスは最後まで言えなかった。途中でナディアが噛み付くように唇を合わせたからだった。
ゼウスは最初こそ戸惑いがちな様子ではあったが、そのうちに口付けの合間で好きと何度も繰り返すナディアの身体に手を回して、自身も熱い接吻に応え始める――――
接吻と抱擁を繰り返して雨に打たれた二人は、お互いの冷えた身体を温め合う場所を探して歩き出した――――