59 魔性の男 2
「大丈夫?」
呆気にとられるナディアにジュリアスが手を差し伸べてきて立たせようとする。
(あああああ! 手が! お手てがぁぁぁっ! ふ、ふ、触れてしまったあああああー! どうしよおおおぉぉー! 助けてゼウスー!)
ジュリアスによって引き起こされながらもナディアは混乱の局地にいた。
「びっくりさせてごめんね、俺との話し合いに応じてくれるのかどうか、どうしても答えが聞きたくて。ここなら邪魔されないだろうし」
にっこりと最高級に近い笑みを向けられて、ナディアの早まっていた心拍数がさらに上昇する。間近でこんなものを見せられたら、人間の女ならきっと泡を吹いて倒れているに違いない。
ナディアがそうならなかったのは、美形には慣れているということもあるが、ジュリアスから女を抱いたことがある匂いがするというのが一番だった。この男は番対象外だ。
それでも慌てふためいてしまうのは、それほどまでにこの男の性的魅力がとんでもないということだ。
オリオンも本来の姿の時の色気は凄かったが、ここまでではなかった。年上だからなのか性経験の有無の差だからなのかはわからないが、規格外すぎる。何かそれ用の魔法でも使っているのだろうかと勘繰ってしまうほどだ。
『こっちから話すこととか別にないし! ここは関係者以外立入禁止だから出ていって!』と言いたい所だが、ナディアは何も言えずにジュリアスの顔から視線が離せなかった。
「君はシリウスのことを酷く誤解していると思うんだ。俺と話、してくれるよね?」
ナディアはたじろいだ。また、「シリウスと結婚してくれ」みたいな話だとしたら、というか十中八九そうなんだろうけど、自分にはゼウスがいるし、とてつもなく困る。
けれど断れない。魅惑の圧が凄すぎる。美形だらけの里の中にだってこんな恐ろしすぎる美形はいなかった。ジュリアスが優雅に美しく大空を舞う鷹ならば、自分なんぞはさしずめ地を這う醜いミミズである。
ジュリアスは同情を誘うような憂いを含んだ表情をしているが、それが狙ってやっていることなのはナディアだってわかっていた。
『この男の思惑通りになってたまるものか!』と、ナディアは気力を掻き集めて何とか自分の意志を口にする。
「話すことは……何もないわ…… 本を買ったら帰って……」
オリオンに情みたいなものは感じているが、ナディアが恋しているのはゼウスなのだから、現状オリオンと一緒になるつもりは全くない。
ただ、獣人であるナディアはゼウスに気持ちがある状態であっても、オリオンと肉体関係を持ってしまえばオリオンが番になり、彼だけを心から愛するようになってしまう。ナディアはまだゼウスと番になっていなかった。
ナディアとしてはもちろん、ゼウスと付き合っておきながらオリオンと不貞行為をするつもりなんて微塵もない。最初から不毛だとわかりきっている話し合いに応じることはできない。
「そう…… 残念だ」
ジュリアスが悲しそうな顔をする。一瞬、そんな気持ちにさせてしまったことに罪悪感が生まれるが――
『これは罠だ!』とナディアは考えを改めた。心を強く持たなければ、この魔性の男に呑まれてしまう。
「仕方がない、仕事中にあまり時間を取らせても悪いしね。また来るよ」
「え……? ま、また来る……?」
「君が話し合いに応じてくれる気になるまで、何度でも」
ナディアは驚いた。
ジュリアスが店内に入って以降、気付いた往来の者たちが店の前に集まってしまっていた。ざわざわとうるさくなり始め、どこから持ってきたのか写真機をかざして撮影している者までいた。
何人かがジュリアス見たさに店内にまで入って来たが、店内はそこまで広いわけではないし、明らかに物見遊山な者たちが増えてしまっては正規の客には迷惑でしかない。
店の中で写真機を構えた者には流石にリンドが注意していたが、表向きはジュリアスが何かしているわけでもないので、彼に注意をすることはできない。
実は最近、一時期鳴りを潜めていたシャルロットがナディアの前に現れるようになってしまった。
滝事件以降とんと会ってはいなかったが、それは彼女の兄であるランスロットが、シャルロットがナディアとゼウスにちょっかいを出さないように押し留めていたかららしかった。
ランスロットは一度ナディアの前に現れている。はっきりとは言わなかったが、ランスロットは滝事件の犯人が誰なのかに気付いている様子だった。
シャルロットに邪魔されることもなく、ナディアはゼウスとの仲を深められていたのだが、ランスロットの妻が予定よりも早く産気付いてしまい、彼は首都から遠く離れた婚家に戻らざるを得なくなった。
ランスロットの帰省後、目の上のたんこぶがいなくなったとばかりに、シャルロットは戒めを破ってナディアの職場に現れるようになってしまった。
従者一人だけを連れていることもあれば、他の令嬢たちと共に来ることもある。シャルロットはあの事件の日に表面上は友好的だった態度から一変、ナディアがゼウスと正式にお付き合いをしたせいだとは思うが、ナディアへの敵意を隠さなくなった。
自分への接客の態度が悪いと難癖をつけたり、欲しい物があると本を探させたりするのだが、持ってきた本をこれではないと、どこのわがまま姫だとばかりに何度もナディアを動かして仕事の邪魔をしてきた。
それを見かねたリンドが、シャルロット一行が現れた時はナディアを書庫に行かせるようになった。庇ってくれているのは有り難いのだが、リンドは意図的にやっているのかシャルロットたちにかなり高圧的な態度で接しているので、相手は公爵令嬢であるしいつか問題になりやしないかとずっとヒヤヒヤしている。
ともかく、既に面倒な者に目をつけられているのに、これ以上厄介な相手が増えるのは御免被りたい。ジュリアスが頻繁に店にやって来るとリンドに迷惑がかかる。
「ま、待って……」
「先に戻るね」と言って消えようとしたジュリアスをナディアは寸前で呼び止めた。
話をするだけ。ただ話をするだけだ。オリオンと一緒になるようにと言われても、ゼウスがいるのだからと突っ撥ねればいいだけの話だ。
「い、一回だけなら話を聞くわ。あなたが店に来ると人だかりが凄いのだもの。ちょっとした営業妨害だわ」
ナディアの言葉を聞いたジュリアスが、とても嬉しそうな笑顔を見せるので、ドッキーン! と胸が再び高鳴り始めてしまう。
(駄目だ駄目だ! この男は毒だ! 近付いてはいけない! なのに話し合う約束しちゃったよ! 大丈夫か私!)
「ありがとう。それじゃあ君が次に仕事が休みの日でどうかな? 場所は――」
そろそろ上に戻らないとリンドが変に思うし、この場で小難しい話を延々とはできない。あらかじめ決めていたのだろう、ジュリアスが話し合いの段取りを滑らかに決めていく。
ナディアはジュリアスの美声に惚れ惚れとしそうになりながらも、自分が悪手を打ったことに今更気付く。自分から密室に飛び込んだ結果、ほぼジュリアスの良いように物事が進んでいく。
きっと地下室に降りてくるべきではなかったのだろう。周囲に人がいる状態であればこの男と私的な会話はできないし、精神感応で何を言われても、聞こえてませんという姿勢を貫いて無視し続けていればよかった――
でも、とナディアは思い直す。
ジュリアスと話し合いの場を持つことは、ナディアにとっても利点はある。
この男には色々と、聞きたいことがある。
(だけどその前に、一つだけ言っておかないと……)
「お願いだから、その…… 話し合いの時には、あなたのそのダダ漏れの色気、抑えめで来てくれる?」
ナディアは涙目になっていた。