5 サウザンドキス
カーテンが開く。眩しい朝の光がナディアの顔を照らし、夢の中から浮上する。
目を開けると部屋の窓のすぐそばに、白金髪の男――――ではなく、ナディアと同じくらいの年齢の茶髪の少年が立っていた。
「おはよう、いい朝だね。ご飯できたよ」
魔法で少年の姿になったオリオン――――本名はシリウスと言うらしいが、本当は首都にはいないことになっているそうでナディアは偽名で呼んでいる――――は、律儀に声まで容姿に合わせて変えていた。
最近のナディアの朝は、にこにこ笑う変態によって起こされる所から始まる。
ナディアが起き出すと、テーブルには食欲をそそる肉料理が並べられていた。
現在ナディアは首都にある戸建ての家に住んでいて、不本意ながらもオリオンと半同棲のようになっていた。
オリオンは朝からやって来ては食事を用意するなど嬉々としてナディアの世話を焼いている。オリオンは日中はこの家に入り浸っていることが多いのだが、門限があるとかで夕食の後には必ず実家に帰っていた。
「……いただきます」
この家に住み始めた頃は変態が作った料理なんて食べられないと拒否していたが、食材に罪はない。せっかく作ったのにと嘆かれるので一度試しに食べた所、思いの外美味だった。オリオンは料理上手のようで、まんまと餌付けに成功されてしまった。
「ナディアちゃん、ナイフとフォークが上手に使えるようになったね」
「ええ……」
ナディアの返事はそっけない。オリオンは何かと話しかけてくるのだが、ナディアはいつも会話をぶつ切りにして早々に終わりにしてしまう。
できれば嫌いになってくれないかなと思ってのあえての対応だったが、オリオンにはあまり効き目がなかった。
何度も申し込まれる結婚の話はずっと断っているし、向こうが仲良くしようとしてきてもこちらから歩み寄る態度は一切見せていないので、普通の相手だったら見限って嫌いになっていてもおかしくないはずなのに、オリオンがナディアに見せる好意には陰りが見えなかった。
『死の呪い』のせいで里に帰れなくなってしまったナディアは、必然的に人間社会で生きていかざるを得なくなった。
あの日、『呪い』をかけられた後ほどなくして路地裏に二人の銃騎士が現れた。
一人はナディアが襲われていた時に現れた灰色の髪と瞳の銃騎士で、もう一人はオリオンの本来の顔に似て美しい容貌をした白金髪に蒼い目をした銃騎士だった。
灰色の髪の平凡な顔をした方がオリオンの父アークで、美形の方はオリオンの兄ジュリアスだと言っていた。
ナディアにかけられた死をもたらす魔法の「秘密」にかかわるブラッドレイ家の者だ。これ以上彼らのことを知って「秘密」の内容が増えるのも嫌だったし、正直あまり関わり合いになりたくないと思った。
彼らは銃騎士だが、ジュリアスはナディアを捕まえて処罰することはしないと言った。ただ、現れてからずっと無表情を貫くアークに「今はな」と付け加えられたことは不気味だった。
彼らは人間社会でも生きていけるように、ナディアに住む家と、『メリッサ・ヘインズ』という架空の戸籍を用意してくれた。家は戸建ての一軒家で家賃はいらないし、おまけに首都で暮らせるように生活の面倒は全て見るとまで言われた。
ナディアは最初そんなものはいいから里に帰らせてほしいと懇願したが、その願いが聞き入れられることはなかった。
「秘密」を知る者を敵地に帰すことはできないというのが彼らの回答だった。
そっちが勝手に拉致してきたくせに腹立たしいと思いながらも、確かに「秘密」の内容が誰かに知られたらブラッドレイ家はとてもまずいことになるんだろうなと少し理解はできたし、捕まえずに人間社会で暮らせるようにしてくれて家とか食べ物とか生活の全てを補償してくれるならまあいいか、と、割と大雑把な性格のナディアは里に帰れない現状を受け入れることにした。
しかし、オリオンは一人暮らしのはずのナディアの家になぜか入り浸ってくる……
ナディアはこの男が許せなかった。
ミランダに化けていたことではない。しゃべってはいけない「秘密」の内容が増えるのが嫌であまり詳しいことは知りたくないが、とにかくシリウスは必要があって魔法でミランダに化けていたようだ。銃騎士隊の手の者が潜んでいただなんて里にとっては大問題だろうが、そのことはとりあえず脇に置いておく。
問題は、ナディアがミランダと一緒に風呂に入っていたことだ。一度や二度ではない。それこそ、毎日のように。
最初はねだられて何度か入っていたが、いつの間にか二人きりで入ることが習慣化していた。そしてナディアは毎回必ず入浴中に不自然なほどの眠気に襲われて寝ていた。風呂場で寝る時は夢うつつに身体からいつも変な感じがすると思っていたが、ナディアはあまり気にしていなかった。
でもあれは、確実にいたずらされている。
女のふりして女と風呂に入るとは言語道断。鉄拳制裁を何度下したらこの怒りは解消されるだろうか。実際に何度か殴りかかったことがあるが、悔しいことに全て綺麗に避けられてしまった。本当の姿が超絶イケメンだからいいですよ、なんてことにはならない。ナディアにとってオリオンは大犯罪者だった。
ナディアは『呪い』をかけられた直後に口付けられたのがファーストキスだと思っていたが、どうやら違うらしい。オリオンによればもう四桁くらいはしている、と。
(四桁って、私の純潔はどこに……)
そんな相手がほぼ連日のように押しかけて来ては、「結婚して! せめて婚約して! 恋人になって!」と言って来るが、こんな変態となんで恋人――――つまりは番にならなければいけないのだろうとナディアは思っていた。死ぬ呪いをかけてくるし、ありえない。
オリオンの父アークが結婚その他に反対しているらしく、オリオンが無理矢理既成事実を作ろうとすることもあれっきりなかったが、ナディアはこの男と番になんか絶対にならないと強く決めていた。
ある時ナディアがもう家に来ないで欲しいと言った所、こんな答えが返ってきた。
「ここ俺の家だから。家主が自分の家に帰ってきても何もおかしくないでしょ?」
どういうことか問いただせば、この家は借家で住むのに毎月決まった金額を納めねばならず、その金はオリオンが銃騎士隊から支給されている手当で払っているそうだ。他の食料品や住むにあたって必要になったものもナディアはお店から貰ってきたと思っていたが、それは貰ったのではなくてオリオンが店員に紙を渡して――――つまりはお金を払って買ったものだった。ナディアは借家というのもよく知らなくて、てっきり自分の家を貰ったのだとばかり思っていたが、そうではなかった。
「結婚したらここで暮らしていこうよ。少し狭いけど、子供が何人か出来たらもう少し大きな所に引っ越すか、頑張って家買ってもいいよ?」
オリオンがとても幸せそうな笑顔を向けてくる。
ナディアは危惧した。このままここにいたら自分はいつの日にかなし崩し的にこの男に囲われてしまうのではないかと。
ナディアは、ここから出て行こう、と思った。