58 魔性の男 1
いつものように古書店で仕事をしていたナディアは、店の外、道路から漂う特徴的な匂いを嗅ぎ取って一瞬動きを止めた。
気になりすぎて匂いを探れば、淡い色眼鏡で目元を隠した白金髪の超絶美丈夫が往来を歩いて来るのが見えた。完全に私的な時間なのか、彼は銃騎士隊の隊服を着てはいなかった。私服姿を見るのは初めてなのでやや違和感もあるが、丈の長い外套を着こなして背の高い彼は弟よりもモデルらしく見えた。
ジュリアスは普段から自身の匂いを操っているのだが、今日はいつもとは違い彼本来の匂いをまとっているようだった。
彼の人が近付くにつれて悲鳴の数々や黄色い声が大きくなってくる。ナディアは突然現れたその存在に警戒心を強め、店の入口を注視した。
ナディアがいる会計台からは一目で誰が店内に入ってきたのかがわかる造りになっている。その人物は案の定店の前で立ち止まった。たまたま通りかかったわけではなく、どうやらナディアに用事があるようだった。
色眼鏡を外したジュリアスと目が合ってしまって、柔らかく微笑みを向けられたナディアは、心臓が全力疾走した後のように鼓動を刻み始めた。自分の意志に反して顔を赤くさせてしまう。
(な、何か違う! 前に会った時と違う!)
ジュリアスとは以前に何度か会ったことがあるし直接話をしたこともある。元来愛想の良い男らしく笑顔も何度か見ているが、今回のようにゼウスに対するようなトキメキを覚えたことなど皆無だった。
美形にそこそこ耐性のあるナディアを微笑み一つで狼狽えさせるとは、なかなかのものである。
至近距離でジュリアスの極上の笑みを目撃してしまった哀れな通行人数名が、腰を抜かしてへたり込んでいたり、蹲って泣き出していたり、中には倒れ伏して誰かに抱き起こされているような者もいた。
幸か不幸か店内でジュリアスの真正面に位置していた女性客は、そのまま気を失って連れの男性に支えられている。
パレードの時よりも明らかにジュリアスの破壊力が増していた。
原因はジュリアスの全身から立ち上り周囲に拡散しすぎている強烈な色香のせいだ。彼が普段は本来の匂いを変えているのは、この色気の影響をできるだけ抑えたいという理由もあるようだった。
本領を発揮したジュリアスが店の中に入ると、店内にいた他の女性客から悲鳴が上がるだけではなく、男性客までもが彼の存在に驚き、呻きながら数歩後ずさったり、憑かれたように凝視したりしている。
(男まで虜にするとは…… 魔物か……)
果てはナディアのすぐ近くにいたリンドまでもポカンとしてジュリアス見つめている始末だった。
(ただそこにいるだけで堅物高年男性の心まで引きつけるとは…… おそるべし……)
ナディアはジュリアスの行動を注視し続けていたが、周囲に自分たちの関係性を悟らせないようにとの配慮なのか、彼は真っ直ぐこちらに来ることもなく店内を物色し始めた。
ジュリアスの姿が本棚の向こうに消えて、ナディアは少しだけほっと胸を撫で下ろした。
(しかしあの男、普段は施しているはずの制限を解除して現れて、一体何が目的なんだ?)
ナディアは心の中で訝しみつつも、できるだけ何食わぬ顔で他の客への応対を再開する。
「お願いします」
店内を巡り終えたジュリアスが遂に会計台まで来てしまった。この男はどんな本を買うのかと差し出された手元を見れば、幼い子供向けの絵本だった。
(誰用? まさか自分の子、なんてね)
オリオンからは、兄ジュリアスには婚約者がいてどうのこうのという話はざっくり聞いていたが、現在彼からは近しい赤子の匂いはしないし、そもそまだ婚姻していなかったはずだ――
「これは一番下の弟にあげるものなんだ」
何か物言いたそうにしているナディアに気付いたジュリアスが口を開く。
オリオンには兄弟が七、八人くらいいるという話は以前聞いていた。一番下の弟の年齢は確か二歳くらいだった気がする。
『一番上の弟についても、一度君ときちんと話がしたいんだけど』
ジュリアスが精神感応で話しかけてくる。結構です、と言いたくても、そばにはリンドがいるしで下手なことは言えない。
「お客様、贈り物でしたらプレゼント用にお包み致しましょうか?」
「そうだね、お願いしようかな」
ぎこちない笑みを浮かべるナディアに対して、ジュリアスは全ての者を魅了し尽くすかのような妖しくも美しい笑みを崩さない。ナディアは後の会計をリンドに任せ、ラッピング用のリボンが切れているということにして、梱包材を取りに行くためにひとまず地下室まで逃げた。
地下室に降りたナディアは一つ息を吐き出した。思わず敵前逃亡を図ったわけだが、あの男は心臓に悪い。
ナディアは気分を落ち着かせようとしつつ、リボンがある棚はどこだっけと歩き出したが、地下室内に件の色気が充満してきてしまう。ナディアは驚きに顔を引きつらせながら背後を振り返った。
「ひぃ……」
至近距離でジュリアスの姿を見たナディアは情けない声を出してその場に尻餅をついた。
世界中の女という女を吸い寄せかねないような凄まじい色気をまとった男、再来、である。どうやらジュリアスは瞬間移動で上の階から地下室に降りてきてしまったようだった。