57 兄の思い、弟の思い
ノエル視点に変わっています
「……そうですね。私もそれを危惧している所ではあります」
ノエルは『ゼウスはナディアの正体を受け入れない』というレインの言葉を受けてそれを肯定しつつも、内心では相反する考えを持っていた。
兄シリウスに真実を悟らせないため、ゼウスとナディアの逢瀬に誰よりも接近していたノエルは知っている。
ゼウスは本当のことを知っても、もしかしたら愛を持ち続けるかもしれない。
ナディアはゼウスの心の深い所にまで入り込んでいる。ゼウスにとってナディアはいなくてはならない、唯一無二のかけがえのない存在になっている。
以前ノエル自身がナディアにそう言ったように、獣人だったと知られても、ナディアはゼウスが認める存在になれたかもしれない。
けれど、それを口には出さない。
ノエルはそう思っているが、それは所詮自分が考えているだけの、希望的観測にすぎないのではないかとも思う。
本当の所は、実際にその場面に直面した時のゼウス本人にしかわからない――――
「お前一人だけが貧乏クジを引かされることもないだろう。そんなに悩むくらいだったら、いっそのことシリウスに全部ゲロったらどうだ? あいつだっていつまでも夢見てないで、現実と戦わなきゃいけないんじゃないのか?」
再び気分を沈ませながらため息を吐き出していると、レインがそんなことを言ってきた。
ノエルは首を振る。
「シー兄さんはあの二人のことに気付いたら、おそらくゼウスを殺しに来ると思います」
テーブルに頬杖を突いていたレインは、思わずといった様子でその手を外し、目を見開いて驚いている。
「そこまでか?」
「ええ。兄さんにとって彼女は至高の女神様なのです。そんな大切な女性を奪ったゼウスをシー兄さんは絶対に許さないと思います。兄さんにとってナディアは、自分を救い上げてくれた、二つ目の光なのだそうですよ」
「何で二つ目?」
「一つ目はジュリ兄さんです。シー兄さんはジュリアス教の信者第一号、大幹部ですからね」
「それはお前も同じだろう」
「そうですね。だいぶ、ひねくれた信者ですが」
ノエルはこれまで長兄ジュリアスとは距離を取ろうとしてきた。けれど慕っていなければ、口真似などしない。
「これはもうあれだな、ジュリアス大魔神様に何とかしてもらうしかないな」
「何で魔神なんですか」
「だってあいつ、何でもできるし、器用で頭も切れるし、上官・同期・後輩を始めとした周囲からの覚えも良くて信頼も厚いし、第一、銃騎士隊過去最強レベルで強いくせに実は魔法まで使えますって一体どういうことだよ。天から二物も三物も貰っておきながら、国一番の顔面偏差値まで持っていて完璧すぎて引く。とりあえず出身地は魔界です、ぐらいな落ち度でもないと釣り合いが取れないだろ。だからあいつのことは魔神だと思うくらいで丁度良いんだ」
ノエルはレインに賛同することもなく、曖昧な笑みを浮かべた。
「ジュリ兄さんに相談すれば兄さんなりの解決方法を、あの人基準のやり方で進められてしまいます。私はそれが怖いのです――――
一つ聞きたいのですが、もしもシー兄さんとゼウスが喧嘩を始めたら、レインはどちらの味方につきますか?」
「そんなものゼウスに決まっているだろう」
次兄シリウスはレインのことを親友だと思っていたはずだし、実際に二人は仲が良かったはずなのだが、レインは迷わずにゼウスを選んだ。
(兄…… やはり不憫……)
「ジュリ兄さんの場合は絶対にシー兄さんなんです。ゼウスとナディアの交際を知ったら、ジュリ兄さんはシー兄さんのために二人を別れさせようと動くはずです。そしてあの兄だったら、必ず目的を達成してしまうような気がします。
ジュリ兄さんに相談すればおそらく私の負担は減るでしょう。しかし、私が胃痛に耐える程度で現状の均衡が保てるのならば、このままの平穏をできるだけ長く続けたいと思ってしまうのです……」
「その平穏は嵐の前の静けさだろ。いつかはシリウスにばれる」
「そうですね、いつかは知られてしまうことです……」
ノエルはやや視線を落として、目の前の茶器を見つめながら考える。
「私にとっての問題は、私がシー兄さんとゼウスのどちらの味方をするべきなのかを決められずに迷っているということなんです。
兄の味方をするのであればすぐにでもジュリ兄さんにこのことを知らせて何某かの手を打ってもらうべきですし、ゼウスの味方をするのであれば、シー兄さんとの兄弟の縁を切り、あの二人を誰も手が届かない二人だけで暮らせるような場所へ逃して、一生彼らを保護することだと思うんです」
「いや、前半はまだわかるけど、後半はちょっと極端すぎるんじゃないか?」
「そうでしょうか? 獣人と人間ですよ? そのくらいのことをする覚悟がなければ幸せになんてなれません」
「普通に魔法で日常生活が送れように整えてやるだけでいいと思うが」
「シー兄さんを相手にするのですから一切の痕跡を残さずに消えるくらいのことは必要です。兄さんは絶対にナディアを諦めませんので」
「まあ落ち着けよ。とりあえずお前の覚悟はわかった。もしこれから先お前を含めた三人が消えることがあれば、ノエルが連れて行ったんだろうなって思うことにするよ」
「本当は…… 私は兄さんのことも、ゼウスのことも、とても大切なんです……」
落ち込む。最近は落ち込んでばかりいる。すると、レインが身を乗り出し、手を伸ばしてきてノエルの頭をぽんぽんと撫でた。その手付きは優しい。
「あまり思い詰めるんじゃない。とにかく、一度ジュリアスに相談してみろ」
「ですが、ジュリ兄さんに話したら、あの二人が別れさせられてしまいます……」
「ジュリアスもかなり容赦ない所はあるけど、弟が真剣に思い悩んでいる事柄を自分判断で無下に扱ったりはしないだろ。
兄貴っていう生き物は兄弟のことをずっと気にかけていて大切にしたいと思うものなんだ。あいつは七人兄弟の一番上だし、そういう気持ちも尚更強いと思う。
ジュリアスが心配するのはシリウスのことだけじゃなくて、ノエルのこともそうだと思うぞ」
「確かに、ジュリ兄さんはとても責任感が強いです……」
長兄ジュリアスは責任を取ろうとする姿勢を見せることのできる男だ。
逃げ回っている自分とは全然違う。
「…………そうですね、ジュリ兄さんにこれまでのことや私の考えなども全部打ち明けて、相談してみます」
ノエルがレインに微笑みかけた時、部屋の外から忙しない足音が聞こえてきた。
「ノエル、開けるわよ」
ノックの音と共に声がする。扉が開いて部屋に入ってきたのは、アテナだった。
「レイン、久しぶり! これ、レインから貰ったってマチルダさんに聞いて! とっても綺麗ね! ありがとう!」
アテナは手に花瓶を抱えていた。花瓶には色とりどりに咲く花々が何本も生けられている。
レインは手ぶらで来たのではなく、アテナに花束を買ってから訪ねてきたようだった。
レインは一瞬だけ、遠くを見るような慈しみを持った眼差しをアテナに向けた後、すぐに柔和で温かな笑みを浮かべて立ち上がり、近付くアテナを迎え入れた。
「ここに来る前に花屋の前を通りかかったから、久しぶり会うから花でもと思って」
「もう、気を使わなくていいのに。本当に久しぶりよね。最近は忙しいの? ゼウスもあなたに会えれば嬉しいと思うし、いつでもうちに来ていいのよ」
談笑する美男と美女は、背丈の見た目的にも年齢的にも、よく釣り合いの取れた、お似合いの二人に見える。
ノエルは交わされる会話に入ることもなく、黙って二人を見ていた。
「え? もう行くの? もう少しゆっくりしていったら?」
「ごめん、この後仕事が入っているんだ。じゃあノエル、またな」
「ええ…… また……」
「今度は休みの日に遊びに来てね。皆でお茶でもしましょう」
アテナにとってレインは命の恩人である。アテナは名残惜しそうにしていたが、レインは長居することなく去って行った。