56 危惧
レイン視点
「あら、レインさん、久しぶりですね。ゼウスさんは今お仕事でいないんですよ。アテナさんもちょっと所用で出掛けていて」
「いえ、今日はノエルに用事があるので。いますか?」
とある昼下り、仕事着のままのレインはアテナの家に寄って、出てきたマチルダと話をしていた。ゼウスが仕事で自宅にいないのは想定済だ。
「ノエルさんなら今自室におられると思いますよ。いつもはアテナさんと一緒に出て行くんですけど、最近は体調が優れないらしくて、少し心配なんです」
ノエルの部屋は日当たりも良く、中も広々としていた。モデルの仕事をしているので雑誌類や書籍が多く、奥には衣装専用の部屋もあるのだという。飾り棚には仕事用で撮ったものだと思うが、綺麗な服を着てアテナと二人で写った写真が飾られていた。
ノエルはテーブルに着きながら一人でお茶をしていた。茶器とポットが乗ったトレイがテーブルの上に置かれているが、この部屋に水場はないのでノエル自身かマチルダが用意したものだろう。
「ん? 何だ? 白湯なんか飲んで。味しないだろ」
部屋に入り促されるまま向かいの椅子に座ると、ノエルの飲んでいたティーカップの中身が完全に透明な液体であることに気付く。トレイにはお湯の入ったポットのみが乗っていて、ティーポットも茶葉もない。
レインが訊ねると、ノエルは、はあ、と重めのため息を吐いた。
「胃が痛いのです。せめて口にするものくらいは刺激のないものが良いです。今私は優しい飲み物を欲しているのです」
「体調不良だって聞いたけど、胃痛の原因はゼウスとあの子か?」
「そうです。この状態でシー兄さんが帰ってきたらどうなるのかと、気が気ではありません」
ノエルは再び特大のため息を吐いた。
レインもゼウスのことを思い悩み、一度誰かに相談してみるべきだろうとノエルの所へやって来た。頼みの綱のジュリアスは任務でかなり遠い地へ行ってしまっている。連絡を飛ばして知らせることもできるが、その前に自分よりもゼウスと近い位置にいるノエルに話を持ちかけてみようと思った。
しかし現状、ノエルは自分よりも思い悩んでしまっているようだった。
「何か飲みますか? 持ってきますよ」
「いや、いい。この後行かないといけない所があるし、マチルダさんにも構わないようにと言ってあるから」
レインは立ち上がりかけたノエルを制した。
「シリウスはこのことを全く知らないのか?」
「知っていたら今頃血の雨が降っていますよ。いえ、怒りの雷撃の嵐でしょうか」
シリウスはゼウスがナディアと知り合う前から彼女にぞっこんだった。シリウスが潜入から戻るたびにレインはシリウスに会いに行き、ヴィクトリアの情報や写真などを得ていたが、必ずと言っていいほど「俺の嫁」自慢をされてうるさかった。ウザいくらいだった。
この間最後に会った時には、彼女を里から連れ出すことに成功して今同棲中だとかなんだとか言っていて、おまけに「結婚秒読みだから結婚式には必ず来てくれよな!」と弾ける笑顔で言っていたが、どうやら全てはシリウスが先走っただけのようだった。
情報を精査すると、ナディアは仕方なくシリウスの家に身を寄せていたが別に付き合っているわけではなく、シリウスが不在にしているうちに出会ったゼウスと恋仲になったようだった。
ナディアの本命はシリウスではなくて明らかにゼウスだった。
「鳥を使って何度も愛する彼女のことを探りに来てはいますが…… 私が魔法を使って全力で細工しているので、未だに気付いていません。ですがその行為自体が、兄を裏切っているように思えて……
父は早くから気付いていたらしくて、それまでは父が工作していたようなのですが、私が気付いて以降は、あとはお前がやれと丸投げされました。
毎回誤魔化すのが一苦労すぎます。そろそろ限界なんです」
「隊長は何て言ってるんだ?」
「父は当初からシー兄さんと彼女の結婚は絶対に認めないという姿勢を崩さないままです。父としては、ナディアのことはこのままゼウスが貰ってくれたらいいと考えているようです」
「それは、あの子をゼウスの奴隷にするということか?」
「おそらくそうだと思います」
「でもあいつは、奴隷だとかそういうのは毛嫌いして受け入れられない質だろ」
「確かに」
「俺も最初は、シリウスのことは脇に置いておくとしても、まあ、ナディアがゼウスの奴隷になれば、それで上手くいくだろうと思っていた。でも、あいつは…………」
レインはそこで一度言葉を切った。ゼウスもレインのように、獣人によって辛い目に遭わされている。
「ナディアの正体を知ったら、到底受け入れられないんじゃないかな」