54 実母の行方
(もう少し、ゼウスのそばにいたかったな……)
下を向いたままでいると、お湯の中にあるナディアの手をゼウスが握りしめてきた。
「ねえ、メリッサのそれは本心なの?」
降ってきたのは、存外優しい声だった。
「子供を産みたくないっていうのは、子供嫌いっていう面と、あとはただ単に出産が怖いっていう場合もあると思う。それから、親になりたくない――母親になるのが嫌だっていう理由もあると思うし、メリッサの場合は一番最後がそうだと思う。
メリッサが本当のお母さんに複雑な思いがあることはわかったよ。実の親にそんなことをされてしまったら、自分が親になることを怖いと思ってしまうのは当然だと思う。だけど、子供嫌いってわけじゃないよね?
お店で子供たちに接しているのをたまに見かけたけど、メリッサはすっごいあったかい笑顔しててさ、言い合いを始めた子供の間に入って喧嘩を仲裁するのとかも得意そうだったし、子供といる時のメリッサは何だかいつもより生き生きとしているように見えたんだ。少なくともメリッサは子供嫌いではないよね、むしろ好きなんじゃないの? 子供」
(――御名答)
里にいた頃は、喧嘩もしたが同年代の子供たちと全力で遊ぶのは楽しかったし、仕事を持つようになってからも、年下の子供たちの諍いを収めたりすることも多々あった。
子供――というか、人との触れ合い自体が好きだった。
ナディアは面倒見が良い部分があり、そこを見込まれて連れてこられた人間たちの世話係にも任命されていた。
「子供好きな人が子供を産みたくないっていうのもちょっと整合性が取れないような気もするけど、それだけお母さんとのことがメリッサの中では大きいってことなんだろうね。だけど逆に言えば、お母さんの問題さえ解決できれば、この先子供を持ちたいって思えるかもしれない。
ねえ、メリッサ、お母さんのこと探してみない?」
「さ、探す……?」
ナディアはびっくりした。結婚の話から思ってもみないような方向の話になってきてしまった。
オリオンに里から連れ出されるまでは里の外に出たことはほとんど無く、実母を探そうなんて思ったことはあまり無かった。小さい頃は恋しく思った事もあったが、元々は無理矢理里に連れてこられた人だし、自分のいたい場所に帰っただけだろうから、里に連れ戻したとしてもあっちにとってはただの迷惑だろうと思っていた。
首都に連れてこられて以降も、実母を探そうなんて思ったことは一度も無い。ふとした瞬間に彼女もこの人間社会のどこかにいるんだろうなと頭をよぎることもあったが、正直実母の存在は半分くらい忘れかけていた。
「探して会ってみたら自分の気持ちに整理がつくかもしれない。まあ、向こうにも今の生活があるだろうから、差し障りがあるようだったら、会うことまではしなくてもいいと思う。現在お母さんがどうしているのか知るだけでも、メリッサが前に進む手掛かりになると思うんだ」
「だけど探すって言っても、難しいと思うわ。お母さんがいなくなったのは私が赤ちゃんの時の話だし、私、お母さんのことほとんど何も知らないの…… レベッカって名前だけしか……
お母さんは父様が無理矢理どこかから連れてきたらしくて、出身地も名字もわからないし、年齢だって知らないの。写真も残ってないからどんな顔してたのかもわからない」
「前住んでいた所にその当時のことを知ってる人はいないの?」
ナディアはギクッとした。獣人の里出身ですなんて言えるはずがないのだから、以前ゼウスに聞かれた時に出身地は適当な場所を答えていた。しかし、その場所で聞き込みなんてされたら、「メリッサ・ヘインズ」なんて人物は本当はいないとばれてしまうかもしれない――
「ええと…… 私の父様がすごく酷い人で…… 地元では父様が酒代の為に借金を繰り返してたから、聞き込みしにでも帰ったものなら私は借金のカタに娼館に売り飛ばされちゃうかもしれなくて…… 二度と地元の土は踏めないというか…… あそこでは『メリッサ』の『メ』の字も出せないわ」
「そうなの? 何だか話を聞いていると本当に酷いお父さんだったみたいだね…… 弟が暴力ふるわれたって言ってたけど、メリッサは大丈夫だったの?」
「う、うん…… 私は殴られたことはなかったから大丈夫だったわ」
「そうなんだ。それだけは良かったけど、でも弟さんは大変だったね。ねえ、さっき天涯孤独じゃないって言ってたけど、その人以外に兄弟はあと何人いるの? 今度その弟さんに会わせてよ」
ナディアは内心でかなり焦っていた。この会話あまり続けたくないけれど、聞かれたことには答えなければ――
「ええと、弟っていっても異母弟で、そんなに仲良くなかったし、父様に暴力をふるわれた後に家を出ちゃったから音信不通で……」
家を出たのはナディアの方だが、わざと主語は言わなかった。
「他の異母兄弟とか義理のお母さんとかもいたけど、みんな父様に酷い目に遭わされたから二度と会いたくないって言って出て行っちゃってて、ちょっと複雑で…… 話を聞けるような感じではないかな……」
(ああ、嘘ばっかりついている…… 嘘地獄だわ……)
「そうなんだ……」
ゼウスは疑うこともなく神妙な顔で相槌を打っていた。
ゼウスはナディアの話を信じてくれているようだが、その信頼を裏切っているのが心苦しい。
「何ていうか、メリッサのお父さんって、うーん、どう言ったらいいのかわからないけど、とにかく酷い人だったんだね」
「うん、そう…… 破天荒を絵に描いたというか、本当に型破りで常識の無いとんでもない人だったわ。墓参りにも行きたくないくらいよ」
以前ゼウスには父親はアル中で死んだと話していたが、そのまま父の存在は抹殺しておくことにした。
「誰か他に話を聞けるような親戚とかはいないの?」
「父様は親戚とは絶縁してたらしいから私もよく知らなくて……」
「そっか…… レイン先輩に相談して二番隊に動いてもらうのもありかなと思ったけど、流石に名前しかわからないんじゃあまりにも情報が少なすぎるな……」
『え? 二番隊に頼む? そういうの本当にやめて!』とナディアは心の中で泣きたくなっていた。銃騎士隊に詳しく調べられたら母親が『悪魔の花嫁』で自分が獣人だとばれてしまう気がする――
ゼウスは何やら難しい顔で考え込んでいるが、ナディアはこの話題を一刻も早く終わりにしたかった。
「ね、ねえゼウス、そろそろ暑くなってきちゃったから、お風呂から出ない?」
「あ、そうだね。ごめん、話してたらつい長くなっちゃった。出ようか」
そこでこの会話は途切れたので、ナディアはゼウスにわからないように、そっと安堵の息を吐き出していた。