52 浮気
R15注意
補足:前話との間で脱がされましたが関係はしていません
ナディアはゼウスと二人でホテルの部屋に備え付けのお風呂に入っていた。
寝台に寝転んでぼうっと天井を見上げていると、ゼウスから一緒にお風呂に入らないかと誘われた。
もう全部見られてしまったのだから断る理由もないような気がして、ナディアは特に深く考えることもなく、「いいよ」と答えていた。
しかし、ナディアはその自分の判断を後悔した。
自分の裸は見られてしまったが、ゼウスの裸は全て見たわけではない。彫刻のような美しい裸身を目の当たりにして、ドギマギと心臓が騒いでいる。
どうしたって視線が下腹部にいってしまいそうになるので、そこはあまり見ないように努めた。
洗ってあげると言われたが、そんなことをしたらまたおかしなことになってしまうと思い、一線を越える危機が再来しそうだったので、丁寧に断った。
身体に視線を感じながらもそれには気付かないふりをして、手早く身体を洗ってから湯船に身を沈める。
幼い頃、義兄のセドリックや他の義兄弟たちと入浴したことはあったが、男の人と一緒に入るのは初めてかも―― とそこまで考えて、実は男性とお風呂に入るのは初めてではなかったことに気付く。
『ナディアちゃん……』
ミランダに化けたオリオンと何度も一緒に入っていたのだった。その時のオリオンは少女の姿をしていたから、頭から抜けていた。
ミランダはナディアがいなければ何もできない子で、何をするにもいつもそばにいた。風呂場では特にべったりと引っつかれていたが、寂しがり屋なのかなと思うくらいであまり気にしていなかった。
でも今思えばもっとよく周りを見て、色々なことに注意していればよかった。眠いだけだからと言いながら、風呂場でナディアを見るミランダの目付きが、どこか変だなと思う時はあった。
彼女の正体までは見通せなくても、もしかしたら女の子が好きなのではないかと、ミランダの――――オリオンの気持ちに気付いていても良かったはずだった……
オリオンとは何回風呂に入ったのか正直わからない。
身を抱えるように浴槽の中に座ってじっとしていると、すぐにゼウスも浴槽に入ってきた。
浴室に沈黙が落ちてしまう。
「あの――」
「結婚して」
話題を探そうとして夕食の異国料理の話でもしようとしたが、その声とゼウスの声が被る。
ナディアは突然の求婚に驚きすぎて固まった。
「責任を取りたいんだ。あんなことをしてしまったんだから当然の話だよ。結婚しよう。ひとまず婚約でもいいから」
『ゼウス様は真面目だからきっとお付き合いすることになったら婚約まではすぐよ!』
脳内に、いつか言われたエリミナの言葉がこだまする。
一瞬、このまま「メリッサ・ヘインズ」として一生ゼウスを騙し続けて結婚する道もあるのかも、という考えが頭をよぎり、わかった、と返事をしてしまいそうになって――
(いやいやいやいや、ダメでしょ!)
直前にオリオンのことを考えていたからなのかはわからないが、告白を受け入れた時とは違い、今度は考えなしについうっかり了承してしまうことにはならなかった。
(一生騙し続けるなんて無理がある。ノエルに協力してもらえれば食事面はどうにかなるかもしれないけど、そもそも子供はどうしたらいいの?)
父親か母親のどちらか一方でも獣人ならば生まれてくる子供は必ず獣人になる。人間のゼウスが相手でも、ナディアが産んだ子ならば必ず獣人だ。
それにもし獣人と結婚したことが世間にばれてしまったら、ゼウスは『悪魔の花婿』として処刑対象になってしまう――
そんな危ない橋は渡れない。
この求婚を受け入れてしまったら、もっと状況が悪化するような気がした。
「結婚したいのは責任を取りたいからだけじゃなくて、君のことがとても大好きだからだ。一生一緒にいたい。さっきのことがなかったとしても、俺は必ず君に求婚した」
ナディアはすぐに返事ができなかった。
(この人は本当に私を愛してくれている)
そのことに胸が詰まる思いだった。
(だけどこの人が愛しているのは、偽物の私……)
「……ありがとう。そう言ってもらえてとても嬉しい………… だけど私、結婚願望が無くて……」
ナディアはなるべくゼウスを傷付けないような断りの理由を捻り出そうと、頭を最稼働させた。
嘘をつくことは心苦しい。けれどゼウスを守らなければという思いが先に立った。できるだけ本当のことも織り交ぜながら話す。
「前に私は天涯孤独だって話したけど、本当は違うの。嘘ついててごめんね…… 私の家のことをあなたに知られたくなくて……
私の本当のお母さんはたぶん今もどこかで生きてるの。母親は父親のことが嫌いすぎて、赤ん坊の私を置いてどこかへいなくなっちゃった。
父親は女好きの酒浸りで気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るうような酷い男で、弟なんてボコボコに殴られて蹴られて死にかけてた……
父親は色んな女の人と関係してて、同時期に女が複数いるとかも日常茶飯事すぎて、お母さん? 的な人はたくさんいたけど、でも皆、あの人に一番に愛されているのは自分じゃないってわかっていたみたいで、きっと本当の意味では幸せではなかったんだと思う……
そういうのを間近で見ていたから、結婚に夢とか全然持てなくて」
だいたいほぼ真実を話したが、最後の部分だけは偽りだ。ナディアは結婚――つまり番を持つことには夢を持っている。
(番を持ちたくないだなんて思っていない。本当は番を得て、幸せになりたい……)
「……その考え方が変わることはない? 俺は君のお父さんみたいに浮気はしないよ。俺はメリッサに出会うまでは女嫌いをこじらせていて、君を好きになれたこと自体が奇跡みたいなものなんだ。これから先メリッサ以外の女性を好きになることはたぶん無いよ。
俺、自分で言うのも何だけどすごく重い男で…… 昔、一人だけ付き合った彼女がいたんだけど――――その子は、死んでしまったんだけど………… 今でもその子が夢に出てくるんだ。彼女のことが忘れられないんだよ。
……って、こんなこと、昔の彼女をまだ思ってるとか、メリッサに言うべきことじゃないよね、ごめん…… これじゃ心の浮気みたいだよね………… 今浮気しないと言ったばかりなのに矛盾してた………… ごめん…………」
真っ直ぐなゼウスは思いを隠さない。本人も言っている通り、昔の彼女の話なんて今の彼女の前では避けるべき話題だと思う。
けれどとても、ゼウスらしいなと思った。
確かにこの人は浮気はしないだろう。もし他の誰かを好きになったとしたら、それは浮気ではなくて本気だ。
ナディアに嫉妬や怒りの感情は沸き起こらなかった。ゼウスの最初の恋人が死んでしまった原因は、ナディアの父親――――シドのせいなのだから…………
「ごめんなさい……」
謝るナディアを見たゼウスの顔にさっと焦りの色が浮かぶ。
「ごめん! 俺が悪かった! 昔の彼女の話なんてして悪かった! 彼女の話はもう二度としないから、だから別れるとか言わないでくれ!」
ナディアは少し逡巡してから、首を振った。
「……私も、別れたくない」
本当はここで別れようと言うのがお互いのためだとどこかで気付いていながら、ナディアはその決断が下せなかった。
「その人のことを話したくなったら、いつでも話していいのよ。その人のことを無理に忘れなくていいの。だって、ゼウスのとても大切な思いなんでしょう? 私はゼウスの気持ちを守りたい。その人を愛していた思いを大切にして」
ゼウスはナディアを見ながら驚いたように目を見張り、それから、少しだけ泣きそうな顔になった。