48 義姉か義妹か
ゼウスが酔っ払いに詰め寄っている一方、アテナの中で酔っ払ったことになっているはずのメリッサことナディアは、台所でノエルと共に夕食の後片付けをしていた。
「あなたが私の義姉となるのか、それともアテナの義妹となるのか、悩ましい所ですね」
ゼウスが酔い潰れたアテナを運んでリビングから出て行ってしまい、ノエルと二人きりになってちょっと気まずいかもと思っていた矢先、いきなりそんなことを言われてナディアは狼狽えた。
「え、いや…… あの……」
オリオンとは別に付き合っているわけではなかった。散々交際の申込みや求婚はされていたが、全て断っていたわけで、実際は彼氏でも婚約者でも何でもない。
オリオンとの関係はいわば家主と同居人、良く言ったとしても友達止まりだ。
しかし、オリオンの本来の顔付きに似た彼の弟を前にすると、なぜだか自分が不貞を働いたような、若干いたたまれないような気持ちになってきてしまうのはなぜなのか――
ナディアの様子を見て、ノエルが少しすまなそうな顔をした。
「すみません、責めているわけではないのです。あなたに受け入れてもらえない兄が不憫だとは思いますが、そもそも無理矢理あなたと関係を持とうとした兄が悪いのですから」
(筒抜けだ。襲われて合体直前まで行ったことが筒抜けだ……
どうしよう。オリオンに裸を見られているとか、キスを千回以上されているとか、そんなことゼウスには絶対に知られたくない)
ゼウスともキスだけなら何度かしたけれど、その度にオリオンのことが頭をよぎってしまい、何か遠隔で呪いでも飛んできているのかと勘ぐったこともあった。
「ゼウスには言わないでいてくれる……?」
ゼウスに知られた時のことを想像したらなんだか泣きたくなってしまって、ナディアは気付けばノエルに口止めをしていた。
「言いませんよ。あの件に関してはあなたは完全なる被害者で、謝らなければいけないのはこちらの方なのですから」
ナディアはほっと息を吐き出した。ノエルはあの変態の弟だが、奴とは違いだいぶまともそうだと思った。
「兄は可哀想な人なんです」
皿を洗いながら内心でオリオンのことを変態と揶揄していると、ノエルが急にそんなことを言ってきた。
「長兄ではなくて次兄の方ですよ」
とノエルが付け足す。
「兄は本来の自分自身の存在を消してまで、危険の付きまとう獣人の里に長期に渡り潜入しています。私は兄一人にそんな辛い思いをさせている父と長兄を非道だと思っています。
兄自身がその道を選んだと、母も他の兄弟たちも――兄自身ですら一見そう思っているようにも見えますが…… 本当の所は、私は違うのではないかと思っています」
ナディアは里に行きたくないと言って腕の中で泣いていたオリオンのことを思い出す。あの時はナディアに会えなくなるからだと言っていたが、理由は本当にそれだけだったのだろうか。
「次兄は長兄を慕っている――――と言えば聞こえはいいのですが、盲目的に信じていて、長兄のためならば自分の身を捨ててでも尽くそうとします。まあ、それは長兄も似たようなものなのですが……
長兄と次兄には、他の兄弟たちの間にあるものとは違う、私も入り込めない二人だけの絆があります。
次兄は長兄に死ねと言われればおそらく喜んで死にます。もしも獣人の里で正体を見破られるようなことがあれば、兄は魔法という私達の切り札である秘密を守るために、自ら死を選ぶでしょう。
私は特別に思っているはずの弟を危険な場所に送り続けている長兄を、目的のためならば非情になりきれるあの人を、恐ろしく感じています。長兄は完璧な男だなんて言われていますが、決してそんなことはありません。
私には兄が、長兄と、それから結局はやはり父の都合の良い駒になっているようにしか見えないのです。私は兄のようにはなりたくなくて、銃騎士にはなりませんでした」
ナディアは口を差し挟むこともなくノエルの話を聞いていた。オリオンはナディアの前ではいつも明るくてヘラヘラと陽気に笑っていた印象しかなかったが、彼の――彼らの――背負っているものは、重たそうだった。
「つらつらと一方的にこちらの事情を話してしまってすみません。結局の所私が伝えたいのは、あなたにあんなことをしてしまう愚かな兄ではありますが、それは愛情深いことの裏返しでもあって、一緒になったら兄はあなたを大切にするはずだということです。
兄のことを嫌わないでほしいのです。兄の思いを吟味せずに即遮断するのではなくて、向き合って、きちんと考えてほしいのです」
「それは………… 私にゼウスと別れて、オリオンと付き合えということ?」
「……………………わかりません。何度も考えたんです。兄にはもちろん幸せになってほしいですし、あなたとゼウスが上手くいけばいいと願っているのも、また、私の本心でもあります。ただ――」
聞こえてくる「声」の種類が変わる。
『あなたが獣人であり、ゼウスがそのことを知らずに交際しているということ自体は、問題だと思っています』
周囲にエヴァンズ姉弟の気配はないが、万一にでも二人に聞かれないようにという配慮なのか、ノエルは精神感応を使って続きを話してきた。
「そうだけど…… でも、私がそれなのはそうなんだけど、でも、私はゼウスのことがとても好きで、ゼウスだって私のことを好きでいてくれて……」
『あなたたちが思い合っていることは、私も良くわかっています。ですが、少し酷な話になってしまいますが、ゼウスが愛しているのは、人間のメリッサという少女です。これからもゼウスと一緒にいたいのであれば、いずれは獣人のナディアというあなた自身を受け入れてもらう必要があります』
「……その通りね…………」
正論だった。まだ覚悟ができたわけではないが、ゼウスの奴隷になるとしても、正体を打ち明けることは必須だった。
けれど、本当は獣人だなんてとても言えない。ゼウスの愛を失うのが怖い。
ゼウスの人となりを知れば知るほど、彼が銃騎士になった理由の根幹に獣人への憎しみがあることに気付く。
ゼウスは彼の大切な人たちを奪った存在を、今でも激しく憎んでいる。
ナディアはノエルに自分の気持ちを打ち明けて相談することにした。こんなこと、エリミナにだって言えない。
現状、ノエルはうってつけの相談相手だった。
『確かにゼウスは獣人を憎んでいるのですが、突破口があるとするならば、全ての獣人を憎んでいるわけではないということです。昔、アテナとゼウスの故郷は獣人の襲撃を受けて、二人とも危うい所だったそうなのですが、その際に二人を逃して助けてくれた稀有な獣人がいたそうです。
ゼウスはあれで敵とみなした人物にはかなり冷たいですし、獣人のことは存在を抹殺して駆逐したいくらい大嫌いだそうですが、その助けてくれた獣人だけには、感謝していると言っていました。
あなたとゼウスに未来があるとするなら、獣人としてゼウスが許容できる存在になるということです。そうなれれば、獣人を毛嫌いしているはずのゼウスも、本当のあなた自身を受け入れてくれるかもしれません。ですが…………』
ノエルはそこで一度言葉を切った。話すべきかどうか迷った様子を見せた後、再び精神感応で伝えてくる。
『アテナたちの故郷を襲ったのが、紛れもなく、あなたの父親である獣人王シドが率いる獣人の一団だったそうです。敵の娘であると知っても尚、ゼウスがあなたを愛し続けられるのかどうか――――あなたの正体と、愛していた者たちの死を完全に切り離して考えられるのかどうか、そこの所は私にもわかりません』