46 お節介、不発
アテナ視点→ナディア視点
「では私はこれで」
玄関先で、本日の勤めを終えたマチルダが見送りのために居並ぶアテナたちに向かって挨拶をしている。
マチルダは壮年の穏やかそうな婦人で、アテナがようやく見つけた家政婦だった。
マチルダに落ち着くまで何人の家政婦がやって来ただろうか。
それまでの者たちはアテナに隠れて皆ノエルとゼウスに色目を使うような者たちばかりだった。魔法使いであるノエルは自身の危機を察してそこまで酷いことにはならなかったが、ゼウスに関しては実は彼の隠れ信者だったという家政婦たちに既成事実を作られそうになったことが一度や二度ではなかった。
夜中物音に気付いて弟の寝室に向かえば、目を血走らせた半裸の女性とやはり服を脱がされかかった半裸のゼウスが攻防を繰り広げていたなんてことはよくあって、アテナはその度に悲鳴を上げて、不法侵入をした――通いの家政婦で夜は不在のはずなのに渡していた合鍵でゼウスを襲いに来た――その不届き者たちを叩き出していた。鍵はもちろんその度に取り替えた。
家政婦なんて雇わない方がいいのではないかと思ったこともあったが、思いの外大成功したモデルの仕事で得た大金を使い、アテナは立地の良すぎる都内に豪邸を建ててしまい、アテナ一人だけでは家を維持するのが難しかった。
「ゼウスが結婚して家を出た後もいつでも気兼ねなく里帰りできるように場所を確保しておかねば」だとか、「一緒に暮らしたいというノエルの生活空間だってきちんと整えなければ」だとか、「お客様が来た時用のゲストルームも他の部屋と遜色ないようにしておかねば」等、とにかく腐るほどあるお金に物を言わせて色んな要望を詰め込んだ結果、台所は三つ、風呂場は四つ、厠に至っては八つもあるという部屋数も二桁はある大きすぎる家になってしまった。
建てた当初は家政婦を雇うつもりだったが、その家政婦選びが難航するとは思わなかった。
当初はまともそうに見えた家政婦たちも、日々を重ねるごとにノエルとゼウスの色香に酔うのかおかしくなってしまい、犯罪者を量産していく。アテナは女性ではなく男性の家政夫を雇おうとしたこともあったが、それは二人に止められた。
女なのに軽く女性不審になりながら辿り着いた救世主がマチルダだった。彼女はアテナのモデル仲間の母親なのだが、娘同様マチルダ自身もかなり美しい容姿をしている。
マチルダにはノエルとゼウスと同じくらいの年齢の息子がいるのだが、やはりその息子も美しく、二人を見ても息子を見ているのと同じ様にしか思えず、変な気持ちにはならないとのことだった。
アテナは彼女のファンたちからは「アテナ様」と呼ばれていて「女神」とも呼ばれているが、アテナにとってはマチルダこそが真の女神様だった。美魔女万歳。
アテナは帰宅しようとするマチルダに、今日はメリッサもいるし一緒に食事を採らないかと誘ったが、夫と子供たちが待っているからと、彼女はいつも通り帰るとのことだった。
『二人がどうなったか明日詳しく教えてね』
『もちろんよ』
『これは明日もお祝い料理かしらねフフフ』
アテナとマチルダは、ゼウスたち二人にわからないようにこっそりとそんな会話を交わしていた。
マチルダが玄関の扉を開けようとすると、それより早く玄関の鍵が開く音がして扉が外側に開いた。
「あら、ノエルさん。帰ったんですね」
立っていたのは、灰色の髪に紺碧の瞳をした絶世の美少年だった。
「実家の用事が終わったので帰ってきました。夕食、私の分もありますか?」
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ナディアはノエルとは初対面だった。しかしオリオンや彼らの兄ジュリアスによく似た顔立ちやその他のことからも、ノエルが「ブラッドレイ家」の者であることは明白だった。それに「ノエル・ブラッドレイ」という名前はオリオンからすぐ下の弟の名前として聞いていたような気がする。
『精神感応です。アテナとゼウスには聞こえていません。普通にしていてください。あなたが手を付ける料理は獣人が食べても問題ないように性質を変えておきますから、何も心配せずに召し上がってください』
そしてノエルも兄二人と同様に魔法が使えるようだった。彼の言う通りナディア用に目の前に置かれたサラダ皿の匂いを嗅げば、見た目は野菜なのにその匂いは肉類のものに変わっている。
レタスを口に入れると鶏肉の味が広がった。摩訶不思議すぎて見た目と味覚の認識阻害が起きるが、助かったとナディアは胸を撫で下ろしていた。ノエルのおかげでこの前のホテルの時のような失態を演じることはなさそうだ。
マチルダ帰宅後の四人で夕食を囲む。ゼウスの姉のアテナはゼウス以上に異母姉に顔立ちが似ていて、ナディアはこの家に来た当初は居心地の悪さのようなものを感じていた。
けれど大好きなゼウスにも良く似ている彼女である。時間と共に少しずつアテナへの苦手意識は薄れていった。
アテナは底抜けに明るく、落ち着いていて物静かな印象の強いヴィクトリアとは性格がだいぶ違っていた。里にいた頃、アテナのようにこんなに朗らかに笑う異母姉をあまり見たことがなかった。
ヴィクトリアがこんな風に笑っていたのは、彼女の母親が亡くなる前と、それから異母弟のリュージュの前でだけだった。
リュージュが自分と同じくシドの子供であることを知ったのは、ナディアがオリオンに里から連れ出されたその日だった。
ナディアはヴィクトリアのことを避けがちで、ヴィクトリアのことを特別大切にしていたリュージュとも、そんなに交流を持たないようにしていた。
けれど今思えば、もう少し彼らと関わっていても良かったのかもしれない。リュージュはとてもいい奴だったし、目の前の以心伝心しているかに見えるゼウスとアテナの仲良し姉弟のようにとまではいかなくても、リュージュと姉弟の絆のようなものを結んでいても良かったのかもしれない――
(里に二度と帰れなくなってしまった私にとっては、望んでももう得られないものなのだろうけど。
容姿で劣ることを気にしすぎてヴィクトリア姉様を避け続けた私って、かなり心が狭かったわね)
リュージュとヴィクトリアの二人は、ミランダ――真相を知っていたら本当は別に助ける必要もなかったわけだが――を助けたいというナディアの要請を受けて、自身の身の危険も顧みずに協力してくれた。
もしもあの二人が今自分の目の前に現れて助けを求めたとしたら、今度こそは間違えないような気がする――――と、ナディアはそんなことを考えていた。
「ささ、メリッサちゃん、これは今日のために特別に仕入れた年代物のワインよ。すごく美味しいから飲んでみて」
「姉さん、メリッサは酒に弱いんだ。あまり勧めないでくれ」
「もー、いいじゃないのよ少しくらい。ケチくさいわね。帰れないくらい酔っ払っちゃったらうちに泊まっていけばいいじゃないの」
「メリッサは明日仕事なんだから無理だよ」
「はいはいはいー、真面目男は黙っていてくださいー。ね、メリッサちゃん、将来の義姉からのお酒なんて断れないわよね?」
「脅すな!」
ゼウスはアテナを止めながらも、結婚をほのめしているアテナの発言を受けてやや照れているようだった。
「せっかくなので、ワイン頂きます」
「そうこなくっちゃ!」
「メリッサ、姉さんに言われたからって無理しなくていいんだよ」
ゼウスが気遣わしげな声をかけてくる。
「大丈夫よ」
ナディアは安心させるような微笑みをゼウスに向けた。
なにせ今の自分にはノエルがついている。無敵だ。
ナディアはアテナが注いでくれたグラスに口をつけた。
――――そうして夕食も終わる頃、ぐでんぐでんに酔い潰れていたのは、ナディアではなくてアテナだった。