44 ファーストキス
ナディア視点→ゼウス視点→ナディア視点
「こっち! 姐さーん!」
約束の時間にゼウスと共に劇場前に辿り着くと、すぐに彼らの姿が目に入った。
声の主のアーヴァインは人懐っこい笑顔を浮かべながら手を振っている。アーヴァインのそばにいるエリミナは顔を強張らせて緊張しているようだったが、華やかな容姿をしているこの二人組は開演前で人手の多い広場の中でも目を引くし、それからエリミナの護衛を務める者も五、六人いるので尚更目立った。
本日は誰から言い出したのだったか、ゼウスを通してアテナとの繋がりを欲したエリミナの提案からだったか、顔を合わせる度にひたすらゼウスと会ってみたいと要望を出すアーヴァインに応えようとしたからだったか、それともナディアと仲の良い友達に会いたいと口にするゼウスの希望を叶えようと動いたためだったか、とにかく同時期にお互いに面識を持ちたいと言い出した者たちの願いを聞き入れる形で、今回のダブルデートが実現した。
「どうも初めまして! 俺は姐さんの友人のアーヴァイン・サングスターといいます。そしてこちらが――」
アーヴァインが緊張したままのエリミナの両肩を掴んでゼウスの前に押し出した。自己紹介を促しているようだったが、憧れのアテナ様の実弟を前にしてエリミナはテンパっていた。
「ほ、ほほほ本日はお日柄もよく、ゼゼゼゼウス様におかれましては貴重なお休みの一日を私どもの面会に費やすような苦行を課してしまいまして、大変申し訳ございませんでしたーーーーっっ!」
挨拶の途中で平謝りし初めて、松葉杖のままで逃亡を図ろうとしたエリミナをアーヴァインが止める。
「逃げちゃ駄目だろエリー、ちゃんと練習したように挨拶しなよ。ほらほら」
「あうううう……」
半分涙目のエリミナは再びゼウスの前に突き出された。
「エ、エリミナ・サングスターと申します……」
エリミナは蚊の鳴くような声でなんとかそれだけ挨拶することができた。
「ごめんね、ゼウスさんに会えるのを楽しみにしてて緊張しすぎてこんな感じになっちゃってるけど、慣れてきたら普通になるはずだから許してね」
ぐだぐだになっているエリミナをアーヴァインがフォローする。
「姐さんから聞いてるかもしれないけど俺たちは婚約してて、結婚前なのに名字が同じなのは従兄妹同士だからなんだ。サングスター商会って知ってる? エリーの両親が経営してるんだけど、何か要り用の際には是非是非ご贔屓に」
名を名乗るのが精一杯のエリミナに対して、アーヴァインは商会の宣伝までしていてちゃっかりしているなと思った。
四人は劇場に入り、端からゼウス、ナディア、エリミナ、アーヴァインの順で横並びに座った。護衛たちは少し離れた席に座っている。
本当は、最初は食事でもどうかという話だったが、獣人であるナディアにとっては正体がばれる危険性が潜むお話だったので、観劇ダブルデートにしようという方向に持っていった。ゼウスとのデートでもダイエット中だから外食はなしでと毎回押し通していたが、いつまでもそんな方法を取れるはずもなく、ナディアは何かいい方法はないかと常に頭を抱えていた。
予定していた観劇はつつがなく終了したが、アーヴァインの発案でカフェでお茶をしようという流れになった。
茶を数杯飲む程度なら問題はないので、ナディアもその提案に乗った。カフェならゼウスとのデートでも行ったことはある。
四人と護衛たちが入ったおしゃれなカフェのメニューには、ケーキやパフェなど女子が好みそうなメニューが写真付きで載っていた。しかしゼウスを目の前にしてド緊張し続けているエリミナは全く食欲が沸かないらしく、お茶しか頼んでいなかったので、ナディアもデザート類を頼まずに済んで助かった。
エリミナは始終ゼウスに何か話しかけようと葛藤している様子だったが、なかなか声をかけられずにいた。エリミナがようやく意を決した様子でゼウスに向かって何事か口を開こうとすると、その度にアーヴァインがエリミナよりも早くゼウスに話しかけていた。
たまたまではなく何度も同じことがあったので、意図的に阻止しているようにも見えた。エリミナはその度に隣のアーヴァインに恨めしげな視線を向けていた。
「……少し御手洗いに行ってきます」
もうそろそろお開きになりそうな流れの中、エリミナが意気消沈した様子で立ち上がり、松葉杖を器用に使いながら下を向いて歩き出した。別のテーブルにいた護衛たちが彼女の後をついていく。
「姐さん、エリーについて行ってやってくれない? 元気がなさそうだから心配なんだ」
「わかったわ」
ナディアはアーヴァインの言葉に特に異を唱えることもなくその通りにした。護衛がついているので安全だとは思うが、ナディアも元気がないエリミナが心配だったのだ。
******
ゼウスがエリミナを追って去っていくメリッサの背中をじっと見つめていると、ふいに先ほどとは打って変わって真剣な顔をしたアーヴァインが話しかけてくる。
「あのさ、今日会ったばっかりで突っ込んだこと言うのも余計なお世話だと思うし、俺は恩人である姐さんとゼウスの交際は基本応援してるんだ。それを前提として聞いてほしいんだけど……」
カフェで話をしているうちに同じ年の二人は次第に打ち解けていき、アーヴァインはゼウスを呼び捨てで呼ぶようになっていた。
「仲が良いのはいいことだと思うけど、毎回お守りを使わないのはどうかと思うぞ」
「ん? 待って、何の話?」
ゼウスは話を聞きながら思いっきり首を捻った。
「いやだから、毎回その…… お守りを使ってないらしいって…… エリーが姐さんから聞き出しているらしくって………… いきなりデキ婚っていうよりは、ちゃんと段階を踏んでいった方がいいと思うんだ」
やや言いにくそうにしながらも語られる内容に、ゼウスは『お守り』が何を指しているのかを理解した。
ゼウスは少し笑って首を振る。アーヴァインも彼の婚約者もかなり誤解しているらしい。
「確かに使ってない。そもそも俺たちはそんな関係にはなってないから」
びっくりしたのはアーヴァインだった。アーヴァインがエリミナから聞いていた話とはだいぶ違っていたので。
「え? 手を出してないのか?」
「メリッサが、そういうのは時間をかけて焦らずゆっくり進めたいって言うから、無理には」
「そ、そうだったのか…… いやなんか変なこと言っちゃってごめん。何か姐さんって肉食女子みたいな感じかと思ってたから、そんなことを言うのは意外だな」
「俺も関係を進めたいとは思っているけど、なかなか……」
「まあ、少し前の俺たちもそんな感じだったよ。かろうじてキスくらいはしてたけどそれ以外はサッパリ。でも何かきっかけがあれば怒涛のように進んでしまうもんさ」
******
エリミナは彼女が期待していたよりもゼウスと仲良くなれなかったようで最後まで元気がなかったが、ゼウスとアーヴァインは気が合ったのか友達になっていた。エリミナには悪いがそれだけでも今回のダブルデートを企画した甲斐があったなとナディアは思った。
薄暗くなった帰り道、エリミナたちと別れたナディアは苦手な馬車にゼウスと乗り込んで家まで送ってもらった。
停留所を降りて歩いて、いつも通りオリオンの家の前でゼウスと別れる――――はずだった。
「メリッサ」
さよらならと言って手を振りかけた別れ際に、ナディアはいきなり呼ばれてゼウスに抱きしめられた。
手を繋いだことはあったけど、こういう触れ合いは滝事件以来だったので、ナディアはゼウスの胸の中でドキドキしてしまった。
こんなに近いとゼウスの心臓の鼓動が速く聞こえる。きっと自分の心臓の音もゼウスに聞かれているに違いないと思った。
ゼウスの手が顎にかけられて、上を向かせられる。
ああ、これは駄目だ、駄目だ――――と思いながらも、ナディアは瞳を閉じて、降ってくる唇を拒まなかった。
最初啄む程度だったものが、やがて唇を割り込まれて中に侵入された。
ナディアは歓喜の渦の中だった。オリオンに意識のないままされたものではなくて、これこそが自分のファーストキスだと身の内に刻み込む。
やがて顔を離した二人は、お互いに照れくさそうに笑い合った。
「おやすみ。またね、メリッサ」
「うん、また」
ゼウスはナディアが玄関に入るのを見届けてから踵を返した。
そのままの流れで家の中に押し入ってくるようなこともなく、ゼウスは「ゆっくり関係を進めたい」というナディアの意見を汲んでキスだけでやめてくれた。とても紳士だ。オリオンとは全然違う。
ゼウスに大切にされているのがわかるのでナディアは嬉しかったし幸せだった。ナディアはこの幸せがいつまでも続きますようにと祈った。