43 図書館
下方面の会話有りなのでご注意を。
「あれ? 姐さんじゃん」
この国随一の蔵書を誇る都立図書館――旧王立図書館――で調べ物をしていたナディアは、見知った人物の声を聞いて、びくりと一瞬身体を震わせた。読み込んでいたページの内容を知られたくなくて、すぐさま本を閉じてしまう。
「アーヴァイン」
その黒髪の人物の名前を呼ぶと、ナディアよりもよほど可愛らしい顔付きをした小柄な少年がにこりと微笑む。
「何してるんだ?」
「え、えと…… ちょっと調べ物を」
ナディアはややしどろもどろになった。調べ物をしていたのは本当なのだが、読んでいた本に現状の困難を打開できるかもしれない記述を見付け、夢中で読んでいた。そのため声をかけられるまでアーヴァインの匂いにも気配にも全く気付かなかった。
「『銃騎士隊と獣人の歴史』? 随分と渋いの読んでるね」
「そ、そうかな?」
「あ、わかった。リンドさんの影響だろ?」
「う、うん。まあ、そんなとこかな……」
ナディアは現在歴史コーナーの本棚にぽつりと置かれた背もたれ無しの低い椅子に座っていた。椅子のそばの床には手の中にある本以外にも二、三冊、似た系統の本を積んでいる。
ナディアは獣人関係の本を呼んでいることを人にあまり見られたくなくて、もうちょっと座り心地の良い椅子のある読書コーナーには行かず、図書館の隅の方で目立たないようにしていたつもりだった。しかしまさかこんな所でアーヴァインに会うとは――
「アーヴァインは何してるの?」
「俺も調べ物。今度歴史研究発表会があるからダチと一緒に来てるんだ。俺の今度のテーマは『ラファエル・バルト生存説』。都市伝説って言われてるけど、俺絶対あの人生きてると思うんだよね」
アーヴァインも従妹のエリミナに似てわりと良くしゃべる方だ。話題がナディアの読んでいた本から『ラファエル・バルト』の話に移ったので、ナディアは内心でほっとした。
ナディアは人間社会の歴史にはあまり明るくなかったが、リンドに学校の教科書を譲られたこともあり、人間社会のことをもう少し知ろうと勉強したことがある。
『ラファエル・バルト』は王政撤廃の主導者であり、近現代史の超有名人だ。勉強といっても学校の教科書をさらっと読んだ程度だが、そんなナディアでも知っているし、お店でも彼についての書籍を何冊も扱っている。
アーヴァインは上級学校での専攻は経営経済学だそうだが、部活動で歴史研究部に入っていて、資料探しに図書館までやって来たとのことだった。
「アーヴィー、知り合いか?」
アーヴァインと話していると、後ろからアーヴァインと同じ学生服を着た青年が現れた。
アーヴァインの友人のようだ。おそらく二人は同じ年と思われるのだが、背の高い彼は青年と言ってもいい風貌をしているのに対し、華奢なアーヴァインは少年と称した方がしっくり来る。
「うん、俺の婚約者の友達」
「へー。俺たち先に場所取りに行ってるから」
彼は特にナディアには興味を持たなかったようで、他の友人と連れ立って学習スペースの方へと歩いて行った。
「で、今日は噂の彼とは会わないのか? 店休みだろ?」
アーヴァインが話題を変えてくる。
「向こうだって仕事があるし、そんなにしょっちゅう会ってるわけじゃないわ」
「でも、式の準備とか今からしておかないと間に合わないんじゃないか? エリーなんてこの間やっとウェディングドレスのデザインを決めて、それでも他の注文が立て込んでるから出来上がるのは結構かかるって言われてたけど」
「え? 何の話?」
「ん? だから姐さんと彼氏さんが結婚するって話だよ」
ナディアはびっくりした。
結婚。ナディアだってゼウスのことは結婚して一生そばにいたいくらい好きだが、獣人と人間で結婚をするのはたぶん無理である――
「そんな話になんて全然なってないわよ? だって私達、まだ付き合ったばかりだし……」
「じゃあ、『あの二人結婚だーっ!』っていうのはエリーが一人で騒いでただけか。『授かっちゃうかもしれないから早く式を挙げさせないと!』って、俺たちが挙げる式場で『最短で空いている日はありますか!』って熱心に聞いてたけど?」
「それは………… 結婚は本当に無いわ……」
(エリー…… あとで釘を刺しておこう)
エリミナにはゼウスに告白されたその日に彼と恋人になったと話している。
朝酔っ払って気付いたらゼウスの前でガウンをはだけていたという話までしてしまったが、うっすらとだが覚えているその時のことを思い出したら急に恥ずかしくなってしまい、ナディアは話の途中で赤面して押し黙った。
対するエリミナも同様に赤面して黙り込んでしまい、客が来たのでその話はそれっきりになっていたが、「授かるかもしれない」だなんて、何かを盛大に勘違いさせてしまったかもしれない。
「え? だって✕でやっちゃったんだろ?」
ナディアは目が点になった。
「は?」
「ゼウス様と避妊具無しで✕✕✕✕してるんだろ?」
アーヴァインの言葉を聞いたナディアは仰天した。もしお茶でも飲んでいたら盛大に吹いている所だ。
(アーヴァイン…… 色事に関しては鼻血を吹き出すくせに、大人の階段を駆け上がりすぎて耐性がついたの?)
いや、未だに鼻血を出す時もあるとエリミナが言っていたから、エリミナが関係していないことについては意外と無頓着なのかもしれない。
裏を返せば、アーヴァインはナディアのことを全く女としては見ていないということでもある。
「ないないない! そんなことしてない!」
「え、でも、気分が盛り上がりすぎて最初から『お守り』を使わなかったみたいだから、あのゼウス様がそんなことをするなんて本気モードに違いないって、エリーが言ってたぞ。デートのたびに確認してるけどいつもお守り無しだって」
(エリィィ……!)
早い所エリミナの誤解を解かねばと思いつつ、「お守り」という単語からエリミナとの会話を自然と回想する。
ゼウスと付き合うことになった日、エリミナとお互い赤面状態から会話が不自然に途切れた後、しばらくしてから彼女がリンドに聞こえないようにして『お守りは使ったの?』とこそっと聞いてきた。
『やあね、使うわけないじゃない』
とその時はあまり何も考えずに返していたが、答えを聞いたエリミナが驚いたような顔をしていたので、エリミナの中では誤った情報が事実として組み上がり肥大化しているようだった。
その後も確かデートの度にお守りのことを聞かれ、ゼウスとはそんなことをしてないという意味で毎回使っていないと答えていたが、かなり曲解されて伝わっていたようだ。
(授かってないから。むしろ授かりそうなのはエリーの方でしょう)
ゼウスとはその後、『まだ付き合ったばかりだしそういうのはもう少し時間をかけて、お互いをもっとよく知ってからにしましょう』と牽制しておいたので、オリオンと違ってそこら辺がきちんとしているゼウスとそんな関係にはなっていない。
なっていても困るのだ。好きだという思いを殺せず告白を受け入れて恋人にはなったが、その後のことについては暗中模索状態だ。
ナディアの選択肢は二つ。ゼウスと別れるか、それとも何としてでも愛を貫くか。
後者を選択する場合、数々の苦難が予想される。まず第一には、ゼウスにナディアが獣人であることを受け入れてもらわなくてはならない。それは大前提。
銃騎士である彼は果たして、獣人の番に――――『悪魔の花婿』になることを了承するだろうか?
『悪魔の花婿』は見つかれば獣人と同様に死罪である。ゼウスにそんな枷を背負わせたくはない。
もしかしたら問題を解決できそうな記述をさっき本の中で見つけはしたものの、実際にそれを実行できるかどうかはまだ自分の中でも葛藤がありすぎる。
奴隷になるだなんて…………
銃騎士隊総隊長の許可が必要という条件はあるが、銃騎士であるゼウスは獣人奴隷を有する資格を持っているようだ。
ナディアがゼウスの奴隷になれば、一緒に生きていくことはできるのだろう。けれど結婚とは違うし、ゼウスだけではなくエリミナやアーヴァインたちにもナディアが本当は獣人だということを――騙していたことを――知られることになる。
本当のことを知った時、彼らは、私を受け入れてくれるだろうか?
「今度彼氏さんに会わせてね。エリーもまだ会ってないから楽しみだって言ってたよ」
「そうね」
笑顔でヒラヒラと手を振って背を向けたアーヴァインを見送りながら、ナディアの心中は複雑だった。
いずれは決断をしなければならないが、まだ時間はある。その間に今後の身の振り方を考えておかなくては。