42 急転直下
ナディアは爽やかな朝を迎えていた。
昨日の朝ホテルでゼウスに起こされた時は全身に気怠い感じが残っていたが、その後ホテルで休んだのちに、オリオンの家に帰ってきてからも一日中爆睡し、翌朝すっきりとした気分で起きることができた。
むしろ今朝はいつもより調子が良いくらいだ。
ゼウスとのデートを思い返し、楽しかったなあ、などと思いながら上機嫌で朝食や身の回りの支度を済ませた後、ナディアはいつもよりも早めに家を出た。
古書店までの道を馬車を使わず、いつものように徒歩で通勤する。あんなことがあったのもあるし、馬車はもう二度と使わないような気がした。
ナディアは脳裏に一人の令嬢の姿を思い浮かべていた。
高所から落とされかかったわけだから、普通の人間なら死んでいてもおかしくはない。彼女はナディアが死んでも構わなかったのだろう。
彼女とは一昨日会ったのが初めてだ。恨まれる覚えはない、と言いたい所だが、一昨日の彼女の態度から彼女がゼウスにベタ惚れなのは一目瞭然だった。
彼女たちの前で「恋人です」と偽りではあるもののそんな宣言をしてしまったわけで、彼女としては殺してでもナディアを恋人の座から引きずり降ろしたかったのかもしれない。
里にいた頃、獣人たちが番の座を巡って血みどろの戦いを繰り広げた、なんてことはよくあったが、人間社会の恋愛も命懸けのようだ。
彼女の悪意に巻き込まれないためには、「ゼウスの恋人じゃないです」と、本当のことを言うのも一つの手かもしれないが、ナディアはその方法を取るつもりは微塵もなかった。
少なくともナディアが馬車で襲われた時点では恋人設定はなかったわけで、女の子とデートしようとしただけでその相手を娼館送りにしようとするなんて、どう考えてもやりすぎている。そんな女に付きまとわれているだなんて、ゼウスが可哀相すぎた。
もしまた彼女が刺客を放つなりして自分の命を狙いに来ても、ナディアは全てを返り討ちにする自信があった。自分が防波堤となり、ゼウスは本当に好きな女の子と愛を育めばいいと思った。
――しかし、そんなことを思うたびに、ゼウスが他の女の子と寄り添う姿を想像するたびに、ナディアの心が暗鬱としてしまう。
どうしてなのかという理由は考えない。考えたら負けな気がした。
ナディアは思考を振り払い、別のことを考えようとした。
思い付いたのはホテルで食べたステーキが美味しかったとか、そのくらいだった。
あのレストランの肉は最高だったが、サラダまで食べてしまい後味が悪かったので、今度は肉だけを頂きに行きたい。
オリオンが戻って来たら一緒に行こうかな、などと考えながら職場の近くまでやって来ると、とある一人の少年の匂いに気付く。
親しみを持つようになってしまったその匂いを嗅いで、ナディアは足を止めた。
扉が閉まりカーテンの掛けられた古書店の前に佇むのは、一人の銃騎士。
「……ゼウス?」
(こんな朝の通勤時間帯にどうしたのかな?)
隊服を着込んだ彼も出勤途中なのだろうかと思いながら、ナディアは小走りでゼウスに駆け寄った。
「ゼウス、どうしたの?」
近付いて声をかけると彼がこちらを向いた。心なしか目の下に隈があって、何だか疲れているように見えた。
「――ってください」
「え、何?」
声が小さくて聞こえなかったので思わず聞き返す。
「俺と付き合ってください! あなたのことが大好きなんです! あなたのことを考えて夜も全然眠れなくなるくらい大好きなんです! 初めてあなたに会った時から、俺は好みのド真ん中を撃ち抜かれていました!!」
告白を受けたナディアは、ただポカンとしてゼウスの顔を見上げていた。
「聞かないふりをするのはもうやめてください! 俺のことが嫌いなら嫌いってむしろはっきりそう言ってください! そうすればこんな待ち伏せするような気持ち悪いことなんてもう二度としませんから! いっそ一思いに殺してくれたほうが俺は楽になれるんです!」
ゼウスに詰め寄られてナディアは――――
「あ、はい」
と答えていた。
「そ、その『はい』っていうのは、俺と交際してくれるっていう意味での、『はい』?」
「あ、はい」
その途端、ゼウスの表情が花が咲き誇ったかのような美しいものに変わる。
「ありがとうメリッサ! ありがとう!」
ゼウスが喜びに溢れかえった状態で抱きついてくる。抱きつかれたナディアはようやくハッとした。
(し、しまった! 告白されたのが嬉しくて、ついうっかり了承してしまった!
どどどどどどどどうしよう。獣人なのに、銃騎士とお付き合いするだなんて、自分から棺桶に片足を突っ込んでいるようなものだ!)
「あ、あのー、ゼウス……」
やっぱり何とか断れないだろうかと、おそるおそる声をかけてみると、抱きついているゼウスがやや身体を離してこちらの顔を覗き込んでくる。
「何?」
至近距離で嬉しそうに見つめられながら、何だか甘ったるい響きを持つ声で囁かれて、ナディアの胸がドクドクと音を立てて脈打つ。
(ゼウスが好き)
認めないようにしていたが、本当は自分もゼウスが好きだった。その恋心を自覚した途端、お互いが好き同士なのに恋人になれないのは、おかしいのではないかと、猛烈にそう思ってしまった。
「――――よろしくお願いします」
やっぱりごめんなさいだなんて言いたくなくて、ゼウスが自分に向けてくれる好意をなかったことになんてしたくなくて、ナディアは気付けばそんな言葉を返していた。