35 病気かな
ナディアは足場に近付いた。下を覗くと舞台上まで結構な高さがある。
(でもまあ、このくらいなら獣人の私は落ちても怪我無くいけそう)
ここでもし仕掛けてくるならたぶん黒だろうし、そうでなければナディアの思い過ごしだ。
「俺が先に見てくるから」
ゼウスはナディアの前に見学を名乗り出た。彼は足場の周りを確認しながら滝の仕掛けの部分に辿り着き、何もないかを確認している。
「たぶん大丈夫だと思うけど、怖いと思ったらすぐに引き返してきて。滑ったりよろけたりしないように気を付けるんだよ」
「手摺りに掴まるから大丈夫よ。心配性ね」
ナディアはゼウスに微笑みを返してから歩を進めた。仕掛けの部分までは特に何事もなく辿り着く。
ナディアが仕掛けの大きな空洞を覗き込んだ時だった。
空洞の奥、数え切れないほどのホースがまとまって取り付けられている箇所から、変な音がする。
『あ、やっぱり』と思った時には、既に幾つものホースから勢い良く水が吹き出し始めていた。
「メリッサ!」
ゼウスの叫ぶ声がする。
ナディアは妙な音が聞こえたと思った時には空洞から身体を離し始めていたが、あまり早く動きすぎると獣人だとばれてしまうので、彼女にしては実にゆっくりと動いた。
その為に肩や腕の一部が滝の直撃に遭い、よろけて足場から落ちる。
ナディアは両手で足場の縁を掴んだが、身体は宙ぶらりんな状態になった。
きゃああああ! と、見学している貴族女性たちから悲鳴が上がる。
「水を! 早く水を止めて!」
「止めろ! 滝を止めろ! 一体どうなってる!」
ゼウスと、それからランスロットが叫んでいる声が聞こえた。
滝は放物線を描きながら落ちているので現状ナディアに直撃はしていない。けれどずっとこのままの状態だとものすごい腕力のある女だと疑われるかもしれないので、適当なところで手を離そっかな、なんて考えていると、視界に金髪の少年が映り込む。
「メリッサ! メリッサ!」
ゼウスは滝の放物線の下に潜り込んで上手く滝に当たらないようにしながら、必死な様子でナディアの腕を掴んで引っ張り上げようとしてくる。
「ゼウス! 危ないから手を離して! あなたまで落ちちゃうわ!」
獣人であるナディアは、きっとここから落ちても死なないだろう。当たり所が良くて奇跡的に無傷でしたとでも言っておけばいい。
でも人間であるゼウスは、おそらく落ちたらただでは済まない。
「嫌だ! 離すもんか! 絶対に離さない! 俺は! 俺はもう二度と! 大事な人を失いたくないんだ!」
ナディアの身体が浮上する。ゼウスの腕によって足場の上まで引っ張り上げられたナディアは、気付けばゼウスの胸の中に抱きとめられていた。
「メリッサ、良かった…… メリッサ…………」
感極まった様子で言いながら、ゼウスが力強く抱きしめてくる。
(あれ? 何だろうこれ…… 何でドキドキしてるんだろう、私……)
ようやく滝の水が止まる。ナディアはゼウスに支えられるようにして立ち上がった。
足場を戻りながら、騒然としつつも安堵したようにこちらを見ている貴族たちの中で、ただ一人、シャルロットだけがナディアたちに険しい視線を向けていた。
「大変申し訳ございませんでした!」
ナディアは貸してもらったタオルと毛布で全身を覆いながら、真っ青な顔で平謝りする支配人他、劇場のお偉方の謝罪を受けていた。
「何でこんなことになったんですか!」
ナディアの隣ではゼウスがかなり怒った顔で支配人たちに詰め寄っている。
「それが、舞台終了後に確かに締めたはずの水を循環させるバルブの線が開いておりまして、ただ、それだけでは滝は発生しないのですが、こちらのお嬢様が滝の仕掛け上部の装置を見学している最中に、不審者が現れたとかで…… マスクと眼鏡と帽子で顔が覆われていたらしく、どこの誰かもわからないのですが、その不審者によってポンプを動かすモーターの電源が入れられていたようなのです。
その不審者は電源を止めようとして駆けつけた者を見て逃げ出してしまったようなのですが、モーターの近くにいたスタッフが数名襲われた様子で倒れておりまして、私どもといたしましても、只今警務隊を呼んでおりまして、被害届けを出そうと考えている所です」
話を聞きながらゼウスは、苦虫を噛み潰したとでもいうのか、相当険しい顔付きになっている。
「……では、誰かが彼女を殺そうとして意図的にやったということですね」
「相手は誰でも良かったという愉快犯かもしれませんし、こちらのお嬢様を狙ってやったのかどうかはわかりませんが、とにかく、犯人が巻き込まれた方が亡くなっても良かったと思っていたことは否定できません」
滝は奈落の底にある水槽に落ちていたが、滝に押された人が滝が落ちる軌道そのままに落ちていくとは限らず、舞台上に叩きつけられるか、奈落の縁かその下の水槽の縁に頭を打ち付けて死亡する可能性もあった。
ナディアとゼウスは劇場関係者たちによって役者が使う控室に通されて、警務隊の到着を待った。新しいタオルを貸してもらい、舞台で使用するはずだったという衣装も貸してもらって、二人とも濡れた衣服から着替えた。
ゼウスは滝の直撃は受けていないが、滝の飛沫を浴びて衣服や髪がかなり濡れていた。
ナディアは濡髪で雰囲気の変わったゼウスをなぜだかじーっと盗み見るよう見てしまう。
(おかしいな、目が離せない。なぜだ……)
ナディアは目をしぱしぱと瞬かせながら、心に浮かんだ何とも形容し難い思いと戦い始める。
相手は銃騎士、意識してはいけない意識してはいけない意識してはいけない、と、ナディアは内心で呪文のように唱えていた。
葛藤するナディアの心を知ってか知らずか、ソファに座るナディアのすぐ横、かなり近い場所にゼウスが座ってきて、ナディアの心臓が大警鐘を鳴らした。
「メリッサ、君が生きていてくれて良かった」
両手を握り締められて美しい顔が近付いてくる。とてつもない至近距離で顔を覗き込まれて、ナディアの目がゼウスに釘付けになる。
周囲の背景がぼやけて見えなくなり、視界いっぱいがゼウスだけになった。ゼウスの顔の周りがキラキラと輝き出して光って見える。
(何だこれ? 目の病気かな??)
「メリッサ、これから先何があっても俺が君を守るから、だからあの恋人の話は――――――」
ナディアの頭の回路は完全に飛んでしまい、ゼウスが口を動かしているのはわかったが、彼が何を言っているのか全然理解できなかった。
ゼウスが熱心に語っているらしき途中で彼が話を止め、背後を振り返る。
ゼウスの視線の先、扉付近に何人かが立っていた。ゼウス以外見えなくなっていたナディアの視界は、目を凝らして彼らを見ているうちに徐々に正常に戻ってくる。
立っていたのは支配人と、その他数名の劇場関係者たちだ。
彼らが何かを喋っている。時間と共に正常に機能しなくなっていたナディアの耳も回復し、支配人の言葉を捉えた。
「――――はい、そうなんです。警務隊がお二人に証言を取りにくるのはまだちょっと時間がかかるそうです。ですが今は真冬でこのままではお身体も冷えてしまいますし、近くの一級ホテルを我々で押さえましたので、よろしければそちらでしばらくご休憩なさっては如何ですか?
一泊でお取りしましたので、もちろん警務隊とのお話が終わって以降もお泊りいただいても構いません」