32 偽装恋人
※BLカップルが出てくるので苦手な方は注意してください
シャルロットの後を追い、二人は先程の劇が行われた舞台上に登った。
今日はもう公演はないそうだが、明日のために舞台上には多くの人間たちがいて、舞台装置を動かしたり点検したりしている。
「こちらは奈落です。劇中の滝の水はここから奈落の底にある水槽に落ちるようになっていて、ポンプで汲み上げて循環させるようにしています。今は点検のために開けてありますが、落ちたら大怪我をしますので、気を付けてくださいね」
支配人だという壮年の男が案内役を努めてくれて、シャルロットの兄ランスロットやそのお友達も含めた貴族たちと一緒に説明を聞いて回る。
シャルロットは最初ゼウスの隣に位置取り腕を組もうとした。ゼウスが断っても耳に届いていないかの如く彼の腕を取ろうとしたのだからふてぶてしい。
ゼウスは離れないシャルロットにこう言った。
「やめて下さい。恋人の目の前で他の女性の腕を取るなんて出来ません」
ゼウスの恋人ってどこにいるのだと、ナディアは思わず周囲を見回してしまった。
当のゼウスは恋人だという相手ではなくてナディアをじっと見つめているし、ゼウスのそばのシャルロットは一瞬だけナディアに鋭すぎる視線を向けた。
シャルロットはすぐに感情を押し殺したように何食わぬ顔に戻っていたが、彼女のその視線に『殺ス』という明確な殺意が宿っていたように見えたのをナディアは見逃さない。
「恋人? それはまあ…… 私の知らない間にどこのどなたと恋仲になられたというのですか?」
シャルロットの口調は悲しそうで、まるで浮気した自分の恋人をなじるような口振りだった。
ゼウスはシャルロットの問いには答えないまま、何かを訴えるような強い眼差しでナディアを見ている。
「お前の恋人はこの女か?」
支配人と見学メンバーの全員がナディアとゼウスとシャルロットの三人を伺うようにして押し黙る中、沈黙を破ったのはシャルロットの兄であるランスロットだった。
ナディアは先程ランスロットと彼に寄り添う美しい恋人に対面した時から、ずっと彼らのことが気になっていた。
なぜならば、「アン」と名乗り華やかに着飾っているランスロットの恋人から漂う匂いが、明らかに女性ではなく男性のものだったからだ。
アンは女装した男である。
だからと言ってランスロットが騙されているというわけではない。彼らには肉体関係がある。獣人であるナディアは嗅覚で彼らの関係に勘付いてしまった。
ランスロットはアンが男であることを承知で付き合っているようだった。
どういう経緯で付き合うことになったのかナディアは興味津々だったが、平民がいきなり貴族に突っ込んだ話を尋ねるわけにはいかないし、「匂いでわかりました」なんて獣人と疑われそうな言動も慎むべきだ。とりあえずそのことは脇に置いておく。
それよりも、今はゼウスのことだ。
「ゼウス、私は大丈夫よ。あなたのいいように」
ナディアはゼウスがこちらに向けてくる強い視線の意味することを察しようとした結果、ゼウスが偽の恋人役をナディアにやってほしいと思っているのでは、という結論に辿り着いた。
この場にゼウスの恋人はいない。というか、現在ゼウスには恋人自体いないはずだ。
ゼウスの身体からは親密になった女性の匂いなんて全くしないのだから、恋人がいるというのは十中八九ゼウスのはったりである。
エリミナ情報ではゼウスには以前幼馴染の恋人がいたそうだが、その女性は亡くなってしまっている。ゼウスの身体からはその幼馴染の匂いもしない。ゼウスは前の恋人と深い仲にはならなかったようだ。
昔恋人がいたとしても決定的なものでなければ匂いはやがて時間と共に消えてしまう。
まあ、恋人がいたらその相手と観劇に来れば良かったわけで、そもそもの話ナディアを誘う必要はない。
つまりは恋人がいるというのはシャルロットと距離を置きたいゼウスの口からのでまかせであり、その偽の恋人役ができるのはこの場では自分しかいないとナディアは思った。
ナディアが大きく頷いたのを見て、ゼウスが口を開いた。
「はい、そうです。彼女は私の恋人です」
(通じた! これぞ以心伝心! 目配せだけで意思疎通を図れるという親友だけが使える技を私たちもこんな短期間で使えるようになるとは!)
ナディアはゼウスとの関係が友達を飛び越えて親友にまで昇華したと感じてちょっと感動した。親友になるのはナディアがゼウスとの関係で目指していた最終地点であり、願ったり叶ったりだ。
「そうか。ならばシャル、そいつから離れなさい」
「ですがお兄様――――」
「お前は宗家第三位アンバー公爵家直系の姫だぞ。もっと気位を高く持て。恋人のいる男にしなだれかかるんじゃない」
ランスロットがシャルロットの言葉を遮るようにして言葉を紡ぐ。
この国は、最後の王だった女王が獣人の子を産んだ罪で処刑されて以降、王政が廃止されて共和制になっている。
「宗家」とは国王の代理である「宗主」になれる血を持つ公爵家のことだ。