30 一歩後退?
ナディアたちの席は一階の中央あたりの、観劇には良好な場所だった。観客席にはなだらかな傾斜がついていて段差もあるため、ナディアの手をゼウスが引いて躓かないようにしてくれる。なんだかお姫様にでもなったような気分だと、ナディアは少し浮ついた気持ちになった。
ナディアは里において女性扱いされたことがあまりない。殆どの男共はナディアの容姿を蔑んでいた。
人間の男たちは獣人の支配する里で獣人に歯向かうような真似はしなかったが、だからと言ってナディアと殊更仲良くしようとする者もいなかった。『悪魔の花婿』になる場合は、獣人の美貌や色香に惹かれる部分もあるのだろうし、ナディアと一緒になってもその利点がなかった。
「今日は来てくれて本当にありがとう」
長時間座っても疲れないような仕様になっている、背もたれ付きのフカフカ椅子に座ると、ゼウスが嬉しそうな笑顔と共に告げてくる。先程の冷たい表情は完全に消え失せていた。
ゼウスは美しい。実は獣人でしたと言われても違和感がないほどの美貌だ。「二人のうちのどちらかが実は獣人ですがどっちでしょう?」という質問を百人にしたら、百人中百人がゼウスだと答えるに違いない。
「ううん、こちらこそ遅れてしまってごめんなさい」
ナディアは案内役の男に天誅を下した後、物音に気付いた御者台の男もシメておいた。
御者台の男が馬車の扉を開けた瞬間に襲い、すぐに中に引っ張り込んだのでナディアの凶行を周囲には気付かれなかったはずだ。
男二人とも一発目で意識喪失したはずだから、自分の身の上に起こった事を完全には理解できていないだろう。できるだけ獣人とばれそうな行動は控えなければならないという、エリミナの誘拐事件からの教訓だ。
ナディアは動かなくなった男たちの身体を彼らの荷物から拝借した縄でぐるぐる巻きにして、男たちが吐いた血を使って馬車内の壁に「私たちは性犯罪者です」と書き記しておいた。
男たちの身体からはたくさんの女性の匂いがしたが、それを注意深く探ると、手籠に近いような形で関係を結んだものもわりと多かった。きっとナディアのように人攫いの被害に遭った女性たちだろう。
余罪がたくさんありそうで、放置された馬車の中で縛られた男たちと共に不審な書き置きがあれば、警務隊が事件の気配を感じ取って必ず捜査をするに違いないと思っての行動だった。
馬車が停まったのは首都の中心部からは離れていたが、それなりに往来のある広い街道だ。ナディアはあまり見られないようにと注意しつつ、馬車から降りてその場を後にした。
ナディアは馬車はやはり良くないと思い、劇場までは自分の足で行くことにした。エリミナ宅の使用人が施してくれた化粧が汗で崩れないようにとゆっくり走っていたら、思っていたよりも辿り着くのに時間がかかってしまった。
「気にしないで。本当はね……」
ゼウスはそこで不自然に言葉を途切れさせた後、ややあってから言いにくそうにしつつも話し出した。
「本当は、すっぽかされたんじゃないかって思ってた。この約束自体俺が無理に頼み込んだようなものだったし、メリッサは初めて会った時に俺には興味がないって言っていたから、本当は迷惑だったんだろうかって思って、ちょっと落ち込んでたんだ。でもちゃんと来てくれたから嬉しかった」
「あ……」
ナディアはゼウスと初めて会話を交わした時のことを思い出した。あのパレードの時はこの少年と関わることはもう二度とないだろうと思っていたので、心に浮かんだことをそのまま何も考えずに口に出していた。今思えばかなり失礼なことを言ってしまった。
「あの、そういうわけじゃなかったの。あの時はちょっと嫌なことがあったばかりだったから、ゼウスに八つ当たりめいたことを言ってしまったの。本当にごめんなさい」
あの時はオリオンの兄にオリオンの嫁になれ云々かんぬん言われた後だった。
「私、ゼウスのこと嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃないってことは、俺のことを好きってこと?」
パッと瞳を輝かせたゼウスは結構直球なことを聞いてくるのだが、一部例外はいたが自分を好きになる男性はこの世にいないはず、という思考に囚われているナディアは、ゼウスの思いに気付けない。
「えーと、うーんと…… そうね、たぶん好きだと思うけど、お友達としてね。うん、お友達としての好きかな。そう、お友達」
ナディアは「お友達」を連呼する。ナディアはゼウスとは番ではなく友達になりたいのだ。なんなら親友でもいい。ナディアの狙いは銃騎士であるゼウスではなくて、ゼウスの交友関係なのだから。
「お友達……」
ゼウスが愕然としたように小さな声で呟く。
ゼウスがどこか傷付いたような様子を見せるので、ナディアは首を傾げたが、丁度開演を告げるベルが鳴り響いて照明が暗くなったので、会話はそこで途切れた。