29 一歩前進
「あの、今の人って貴族ですよね?」
ナディアはゼウスに手を引かれながら問いかけた。気にしなくていいとは言われたが、ナディアは先程の少女の匂いに引っかかるものを感じていたので、彼女の身分を確かめておきたかったのだ。
あの男たちは依頼主を「とあるお偉いさん」と言っていた。
(犯人はおそらく貴族……)
気になった匂いとは香水の匂いだ。レモングラスの香水――――
あの男たちの財布の中身の何枚かの紙幣から同じ匂いがした。別に彼らからお金奪ったりはしなかったが、少し気になった。
彼ら自身からは香水の匂いはしなかったので、おそらく今回の依頼主の匂いなのではないかとナディアは推測を立てていた。
しかしレモングラスは人間社会に広く出回っている香水だ。犯人がその香水を使っているのはほぼ間違いないと思うが、レモングラスの香りを纏っているというだけで先程の少女を依頼主と決め付けることはできない。
ただ、里の友人に香水狂いがいたので聞いた話なのだが、レモングラスの香水はかなり安価でこの国では広く庶民が使うようなものだという。レモングラスの香り一つしかしないような単純な香水は普通貴族は使わない。もっと他の匂いも混ぜて複雑な香りを楽しむのだという。
華やかな衣装や高級宝飾品で綺麗に着飾った先程の貴族らしき少女ならば、もっと高価な香水を使っていても良さそうなのに、安い香水を使っているのはなぜだろうという疑問は浮かぶが、好みは人それぞれなのだろう。
つまる所貴族であの安価なレモングラスの香水を身につけている者は少数なのだから、彼女がやはり貴族ならば限りなく黒に近いのではという気がする。
「……ああ、貴族だ。でも放っておけばいい」
ゼウスは周囲の温度が一段下がったかのような、冷たく硬い表情をする。
(ゼウスさんはいつも私に対してはにこやかで晴れやかな感じがして優しいのに、こんな顔もするのね)
ナディアはゼウスの持つ別の一面を見たような気がした。
「……そうですか」
ナディアがゼウスの態度にやや戸惑った声を出すと、難しい顔をしていたゼウスは急にハッとしたような表情になった。ゼウスは足を止めるとナディアに向き直った。
「言っておくけど、俺と彼女の間には何もないから! ただの仕事上の護衛対象なだけで個人的な付き合いは一切ないから!」
「そ、そうなんだ――――ですね」
勢い良く告げられたことに驚いて、思わず敬語なしで返してしまい、すぐに訂正する。
「メリッサ、ずっと思っていたんだけど、俺には敬語使わなくていいから。普通に話してほしい」
ゼウスはナディアよりも一つ年上でアーヴァインと同じ年だ。ナディアはアーヴァインに対しては年上と知りつつ最初からタメ口だった。エリミナの婚約者という、いわば友人の延長のような関係として出会ったことと、あとはこんなことをアーヴァインに言ったら怒るかもしれないが、彼の身体付きが男にしては華奢なために、年上というよりむしろ年下なんじゃ、という感じがしていたのも原因だった。
しかしゼウスについては銃騎士を相手にしているという心の距離から、店で少し話すことはあってもタメ口を使おうという気には全くならなかった。
(でも、今日の目的はゼウスさんとお友達になることだから、敬語を取り払えばもっと仲良くなれるかもしれない)
ナディアは微笑んだ。
「そうね、じゃあこれからは敬語なしにするね。名前もゼウスって呼び捨てで呼んでもいい?」
ゼウスは瞳を輝かせ、再び勢い込んで返事をした。
「もちろん!」