2 その結婚お断り 1
目が覚めるとどうしてこうなったのかよくわからないが、裸で寝転んでいる自分の上にこれまで見たことがないほど美しい男が乗っていた。白金髪に灰色の瞳をしたその男は、ナディアと同じくなぜか裸だった。呆けそうになるくらい顔も身体も美しい男だったが、その全く知らない相手と自分はなぜか合体直前だった。
夢の中で自分の身体からおかしな感覚がすると思っていたけれど、以前何度か同じようなことがあったから、夢の中のナディアはあまり気にしていなかった。けれど、今回ばかりは何だかいつもと違った。
目覚めることができたのは、自身の危機を察知したナディアの本能ゆえだった。確かに目覚めてみれば、一世一代乙女の危機だった。
「おはよう、ナディアちゃん」
男はなぜか自分の名前を知っていて、耳が喜んで気絶しそうなほどの色っぽくも美しい声でそう言った後、綺麗すぎる顔に極上の笑みを浮かべていたが、にっこり笑顔を浮かべて挨拶を交わしている場合ではない。お互いにあられもない格好をしている。しかも相手は、とんでもない美形とはいえ全く知らない男だ。
驚いて混乱するよりも、悲鳴を上げるよりも先に、反射的に手が出た。拳がうなり、男の綺麗な顔に炸裂する。
男の身体が吹っ飛び、部屋の窓を突き破って外へ落ちて行った。ナディアの渾身の鉄拳はそのくらいの勢いのある全力の一撃だった。
ナディアは肩で息をしながら、はっとして頭を抱えた。ああ、またやってしまった、と思った。
ナディアは、獣人としては美しさが足りなくてむしろ人間にしか見えないという自らの容姿のせいで、昔から馬鹿にされることが多かった。その度にナディアは相手を殴って黙らせて来た。
手癖の悪さは父親譲りのようだった。話し合うよりも先に、とりあえず殴って自分の気持ちをすっきりさせてしまう。
ナディアは赤子の頃に母親が蒸発してしまい、引き取って育ててくれた先で共に育った義理の兄からは、そういうのあまり良くないよ、と苦言を呈されたりもしていた。自分でも確かにそうだと思っていたから、意識して自分を抑えるように訓練してきたつもりだった。最近はちゃんと抑えられるようになってきたはずだったのに、またやってしまった。
(でもこの場合しょうがないよね。だってこの状態、異常だもの)
たぶん普通に出会っていたら一目見ただけで恋に落ちていてもおかしくないような破壊力のある美形だったが、意識のない女の子を襲っている時点でありえない。最低最悪のクズ野郎なのだから殴って然るべきた。
ナディアは自身の行動に納得できる理由付けをした後、とりあえず床に落ちていた自分の服を着始めた。
普通の少女なら寝起きに見知らぬ相手に襲われていたという出来事に対して怯えるなり泣き崩れるなり、または衝撃で動けなくなっていてもおかしくはない。だがナディアはそうはならなかった。
これはナディアの肝が座っているというよりも、彼女の育った環境が影響していた。女の子が問答無用でいきなり犯されることは日常的によくあることだった。しかも主に自分の父親によって。
ただ、性的な事件が自分に対してまで起こったことは驚きだった。
父親以外でも知り合いがいきなり犯されて誰かの番になったとかいうことはたまにあったが、そういったことは自分には巻き起こるはずのない全く関係のない話だとナディアは思っていた。獣人に好意を寄せられたことはこれまでなかったので。
ナディアの初恋は同じく獣人である義兄セドリックだった。けれどその恋は叶うこともなく、打ち明けることもしなかった。セドリックとナディアはとても仲が良く、義兄もまんざらでもないのでは? と子供心に思っていた時期もあったが、それは間違いだった。
ナディアはある時セドリックとその友人の会話をたまたま立ち聞きしてまうことがあった。
『お前さあ、ナディアと仲良いよな。血が繋がってないし番になるのか?』
『まさか。ナディアのことは妹としては可愛いと思うけど、女としては見れないよ』
『そうだよなあ、獣人なのにあの顔じゃなあ』
セドリックの友人の笑い声を背にナディアはその場から走り去った。いつもであれば馬鹿笑いするその少年の顔に鉄槌をお見舞いしている所だったが、セドリックに恋愛対象外だと突きつけられたことが衝撃的すぎて受け止めきれずにその場から逃げるしかなかった。
セドリックとはとても仲が良かったけれど、恋愛感情を抱いていたのは自分だけだったのだ。身の程もわきまえずに一方的にこんな馬鹿みたいな思いを抱いていたことが恥ずかしかった。風下にいたために匂いで彼らに立ち聞きをしていると気付かれなくてよかったと思った。
ナディアの認識では自分の容姿は獣人界においては下の下の下だ。こんな醜い容姿をしておきながら、獣人として当たり前のように美しい容姿を持つセドリックと恋人になれるかもしれないなんて期待していたことが滑稽だった。
その後ナディアは何食わぬ顔でセドリックとその家族との生活を続けた。セドリックは直接ナディアの容姿を馬鹿にしたり意地悪することもなく、血の繋がらないナディアに対して他の弟妹たちと別け隔てなく接する優しい人だった。ナディアのことを「可愛いよ」と言ってはくれたけど、それは妹として、家族としての思いなのだ。勘違いしていた自分が馬鹿だったのだ。
その後、ナディアはセドリックに番ができたことを祝福し、彼らの門出を見送った。セドリックとはその後も義兄妹として良好な関係を続けることができた。好きだったなんて言わなくて本当に良かったと思っている。
ナディアはもし自分が番を持つならおそらく人間だろうなとぼんやり考えていた。仕事上、人間との接点は多かったから。
今回のことは驚きや衝撃よりも怒りの方が強いかもしれない。危うく勝手に番を決められる所だった。
この時ナディアはまだ自分は里にいると思っていた。
ナディアが眠る前の最後の光景は、妖しく笑うミランダと、足元で倒れている血塗れのリュージュだった。気配を探るがミランダもリュージュも近くにはいない。ミランダはリュージュを魔法で治したと言っていたが本当にリュージュは助かったのだろうか。それに姉のことも気掛かりだった。姉は父が連れて行ってしまった。まだ貞操が無事だといいが。
ヴィクトリアくらいの年齢の少女が犯されるのはよくあることとはいえ、その相手が実の父親というのはあまりに酷い。
状況確認するべくナディアは割れた窓に近付こうとした。
(ひとまず、あの男は一体誰?)
ここは入ったことのない家のようだが、里にあれほどまで美しい男はいなかったはずだ。
しかし窓辺に立つ前に、後ろに突如現れた気配にナディアは全身を強張らせた。振り返るまでもなく、匂いからそこに現れたのが先程の男だと理解する。男は割れた窓を通ってではなく、いきなり後ろに出現した。
眼前で落ちていた窓硝子の破片が浮かび上がる。
まるで時間を巻き戻すかのように破片が窓へと吸い寄せられてピタリと嵌まり、元に戻った。窓にはヒビ一つ入っていない。
「酷いよナディアちゃん。いきなり殴るなんて。でもそんな勇ましい君が、俺はとても大好きだよ」
好きだと言われて腕に鳥肌が立ち始めていた。男からの好意がナディアは受け付けられない。ナディアは恐る恐る後ろを振り向いた。
男の頬は綺麗なままで、殴られた痕が見当たらなかった。ナディアが全力で殴ったというのに。
男は服を着ていないままだ。彼の劣情は明らかにナディアに向けられている。ナディアはようやく悲鳴を上げた。
ナディアは摩訶不思議な現象を起こした窓とは別の窓から逃げようとしたが、男に羽交い締めにされて止められる。男の力は強くて振り解けなかった。
「ナディアちゃん、落ち着いて。いきなりすぎてそりゃびっくりするよね。ごめんごめん。状況を説明させてもらうとね、俺と君はこれから結婚するんだよ」
「は? え? 結婚?」
結婚は人間同士がするものだ。ナディアはさらに混乱した。
「そもそも、あなた誰なの?」
「君の運命の人だよ」
駄目だ、こいつとはまともな会話が成り立たなそうだ、とナディアは悟った。
ナディアは暴れた。たとえ最上級の美形だとしても、こちらの意見も聞かずに襲ってきて一方的に番になろうとしてくるような全裸変質者からの求愛はお断りしたい。
「ナディアちゃん、ちゅーしよう、ちゅー♡」
裸のままの男が締まりのない顔で唇を尖らせてくるので、ナディアは顔を引きつらせて仰け反り、ぎゃあああ、と全く色っぽくない悲鳴を上げた。ナディアは全力で叫ぶ。
「誰か助けてーーーー」