28 危ない激情
ゼウス視点
「ゼウス様」
シャルロットが特徴的な高めの声でゼウスの名を呼んだ。顔に笑みを浮かべているが、弧を描く唇の角度が心なしかいつもより深いような気がする。
ゼウスは何事もなかったかのように正面に向き直った。
(気付かなかったことにしたい)
けれどシャルロットを含む集団はシャルロットを先頭にゼウスに近付いてきた。
(一難去ってまた一難か)
「まあ、こんな所でお会いできるなんて、私たちはやはり運命なのかしら」
違うと思いますよ、と言ってやりたかったが、ゼウスはそのまま黙っていた。任務外なのだから相手をする義理はないし、失礼な男だと思ってさっさと嫌いになってほしいと思った。
ゼウスがこの日この時に観劇デートすることは多くの貴族女性たちの知る所なのだから、シャルロットが知らないわけがない。様子を見に来たのか邪魔しに来たのか知らないが、偶然でも運命でも何でもないはずだ。
「おい、お前! シャルが話しかけてるのに無視するとはいい度胸だな!」
ゼウスの胸倉を掴みながら怒鳴ってきたのは、シャルロットのすぐ上の兄であるランスロットだ。彼は可愛い妹の交際の申し込みを何度も断り続けているゼウスが気に入らないらしく、何度か威嚇をしに来たことがある。
しかしここ半年ほどは姿を見せていなかった。聞いた話によると婚約者以外の令嬢を妊娠させてしまったとかで、元々の婚約を破棄され、相手方の子爵家に入婿になったらしい。
婿入り先の子爵家はかなり遠い場所にあるので、首都にはいなかったはずだが、今回の集団上京に便乗でもしたのだろう。
「離して下さい」
ゼウスは睨みつけてくるランスロットを真っ直ぐ見据えて静かに言い放った。本当は思いっきりぶん殴ってやりたいが、護衛対象である貴族を銃騎士が傷付けるわけにはいかない。
それに意地の悪い奴だと、胸倉を掴んでいるのをやめさせようと触れただけの正当防衛的な行動でも、「銃騎士に害された!」と騒ぎ立てて面倒なことになったりする。
腹は立つがここはぐっと堪えて、言葉でやめるように促すしかない。
「お兄様! おやめ下さい!」
シャルロットが涙を浮かべてランスロットの腕に取りすがる。
「ゼウス様に手を上げないで下さい! 私の大切な方なんです!」
「お前! こんな奴をかばうんじゃない!」
「私がいけないのですわ! 冷たくされるとわかっているのに何度もゼウス様に愛を乞うてしまうこの私が! ゼウス様は何も悪くないのです! どうか手をお離しになって!」
芝居がかったような台詞だが妹に強く言われ、ランスロットは渋々といった様子でゼウスから手を離した。
「ゼウス様、兄が申し訳ありませんでした。どこかお怪我などされていませんか?」
シャルロットが心配そうな顔を向けてくるが、首まわりや胸などをベタベタと触ってくる。
「ご心配には及びませんので、離れて下さい」
ゼウスはやんわりとシャルロットの手を外して、距離を取った。
「おい、シャル! そんな奴は放っておけ! さっさと行くぞ!」
ランスロットは既に連れの中の一人の女性と寄り添い、苛ついたように険しい視線をこちらに向けていた。
隣の女性は華奢な体つきだが美人であり、貴族然としたきらびやかな装いをしている。ゼウスの知らない女性だったので、おそらく地方に住む貴族だと思われた。ランスロットは女性の腰に手を回していて随分と親密そうだった。
彼の奥方はまだ妊娠中のはずなのでお腹の膨らんでいないその女性は妻ではないはずなのだが、複数人でとはいえ妻以外の女性とかなり密着しながら観劇に来ていても大丈夫なのだろうか。
「私は少しゼウス様とお話をしてから参りますので、お兄様たちは先に中にお入りになっていて下さい」
ランスロットは舌打ちをしたが、お友達の貴族や従者たちと共に劇場の中に入って行った。
お話と言われても、ゼウスからは特に話したいことはないのだが、シャルロットは先程の涙でやや潤んだ瞳で上目使いをしながら、身体を密着させようとしてくる。
「ゼウス様、実は今日は私パートナーがおりませんの。一緒に来た皆様には全員恋人や配偶者の方がいらっしゃって、兄までも愛人と一緒なんですのよ? 信じられませんでしょう? 私はあの兄が好きではありませんの。私はゼウス様の味方ですわ」
シャルロットはにっこりと微笑みながら、ゼウスの腕に自身のものを絡ませて、こてりと肩に頭を乗せようとしてくる。
「私とても寂しくて…… もしよろしければ、一緒に観劇をしませんこと?」
「いえ、連れが来ますので大丈夫です」
ゼウスはシャルロットを引き剥がした。
「でも、失礼ですが…… その女性との約束の時間はとうに過ぎているのではないですか? あの方は確かパレードの日にゼウス様が好きではないようなことをおっしゃっていましたし、約束をしておきながらデートをする気が全くなくなってしまったのではないでしょうか?」
シャルロットはやはりゼウスのデートの日時と約束の時間まで知っていた。
「少し遅れているだけなのでしょう」
ゼウスは取り付く島もない。
「……あの、もしかしてお兄様を気になさってます? それなら大丈夫ですよ。本日チケットの予備が多めにございまして、お兄様と離れた席もご用意できます。私と二人だけの観劇になりますわ。何があっても私がゼウス様をお兄様からお守り致しますので、ご安心なさって下さい」
「ご遠慮申し上げます。私のような無礼者との観劇などやめておいた方がいいと思いますよ。それに彼女との約束を反故にするわけにはいきません」
「彼女はきっと来ないと思いますわ」
何故だろうか、シャルロットはやけにはっきりと断言した。
「来るまで待っています」
「来ませんよ」
「それでも待っています」
シャルロットが取り出した扇子を広げて口元を隠す。シャルロットの口元は見えないが、彼女の目元は、笑いを堪えているように見える。
「お可哀想なゼウス様。あなたはあの子に騙されているのですよ。早く目をお覚ましになって」
いつもの、可愛らしい自分を演出した媚びるような感じとは違う、他人を見下し嘲るような冷笑。
おそらくこちらがシャルロットの素に近いのだろう。思わず出てしまったという感じだ。いずれにせよ好きにはなれない。
しかし、ゼウスはその態度に違和感を覚えた。
(何だろう、胸騒ぎがする。いつも被っている仮面が剥がれかかっても気にならないほど、シャルロットにとって何か面白いことが起こっているのか? それは何だ?
俺が待ちぼうけを食らわされていることか? いや、メリッサがこの場に来ないということじゃないのか?
まさか………… メリッサは来ないんじゃなくて、来られなくなった?)
「あなたは…… まさか…… メリッサに何かしたんですか?」
「そんな、何かしたかだなんで、どうしてそんな酷い事をおっしゃるの?」
シャルロットは大きい瞳を潤ませて悲しそうな顔をしたかったのかもしれないが、その目元には未だに薄く笑みの形がある。
ゼウスは一瞬胆が冷えた後、身体中の血液が逆流するかのような激しい怒りの感情を身の内に滾らせた。
それは義兄の亡骸を目撃した時、幼馴染のイザベラが瀕死の重症を負っていると知った時に感じたものと同等の、激しすぎる情動だった。
(彼女に何かをしたのならば、絶対に許さない! 殺してやる! 銃騎士をクビになったとしても構うものか!)
ゼウスの美しい顔に怒りの形相が宿る。
それを見たシャルロットと控えていた従者がたじろいた時だった。
「お待たせしましたーっ!」
緊迫したその場の空気にそぐわない溌剌とした声が響き渡った。
ハッとしたゼウスは振り向いて、彼女の姿を目に入れた途端、心の底から嬉しそうな満面の笑みを溢れさせた。
表情変化の振り幅が酷い。
「ゼウスさんごめんなさい! すっかり遅くなってしまって! 乗り込む馬車を間違えてしまって、ここに辿り着くまでに時間がかかりすぎてしまいました!」
「いいんだ、メリッサ! 俺が迎えに行けば馬車を間違えたりなんてしなかったはずだ! 一人で来させてしまってすまなかった! 君が無事で本当によかった! ありがとう! 本当にありがとう!」
メリッサに駆け寄ったゼウスは感極まった様子で彼女に抱きついた。
「えっ?」
メリッサは抱きつかれてやや赤面しつつ困惑しているようだった。彼女にしてみれば遅れてしまったのにお礼を言われる筋合いはないという所だろう。
「馬車を…… 間違えた……」
シャルロットは現れたメリッサと、彼女と抱擁を続けるゼウスを呆然としたような様子で見ながら、小さな声でそう呟いていた。
「あの人は……」
メリッサは自分を見ているシャルロットの視線にすぐに気付く。
「彼女のことは気にしなくていい。関係ない人だから。もうすぐ劇が始まってしまうから早く行こう」
手を引かれて歩きながらメリッサはシャルロットをちらちらと見ていたが、ゼウスはシャルロットには全く目もくれず劇場の中に入って行った。
後には、閉じた扇子を折らんばかりに握りしめながら、険のある表情で歩み去る二人が消えたあたりを見つめているシャルロットと、戦々恐々としている従者が残された。