24 デート前の受難
エリミナが連れてきた使用人によって、ナディアはメイクとヘアセットを完璧と言ってもいいほどに美しく施された。鏡を見ればいつもと雰囲気の違う自分がいた。
里にいた頃、自分の容姿に自身が無くて落ち込むこともたくさんあったけど、今の姿を見れば自分もまだ捨てたものではないと自信がついた。おしゃれをすると何だかうきうきと気分が上がるような気がする。
使用人二人の手腕は見事なものだった。ナディアの魅力を最大限引き出すような素晴らしい仕上がりだ。ナディアは要所要所でメイクの仕方を教えてもらいながら、使用人の手技をできるだけ自分のものに出来るよう努めた。
二階から降りると、会計台の前に座っていたエリミナがナディアを見るなり顔を綻ばせた。
「メリッサ、すごく綺麗よ! 今日のあなたは最高だわ! これならゼウス様もイチコロよ!」
エリミナはベタ褒めだった。ナディアは容姿を褒められた経験があまりないので、とてもこそばゆい。
エリミナは隣で古ぼけた本を読んでいるリンドにも同意を求めているが、リンドはちらりとこちらを見るとぶっきらぼうに「ああ」と言っただけで、すぐに視線を元に戻してしまった。
リンドは最近、古書の買取の仕事もナディアに任せてくれるようになった。客がまばらな時間帯などは地下の書庫で趣味の歴史研究をしながら一人で過ごすことが多いのだが、今は足の悪いエリミナを気にして彼女のそばに付いているようだ。
ゼウスが誘ってきた人気舞台のペアチケットは日時指定のものだった。ちょうど店の営業日に当たっていたので、仕事を早退するのも悪いと思ったナディアは最初断ろうとした。しかし――
『行ってくればいい。お前一人くらいいなくても何とかなる』
どこからやりとりを聞いていたのかわからないが、とにかく地下の階段から現れたリンドの鶴の一声により、ナディアはゼウスと観劇デートをすることが決まったのだった。
会計台にリンドを残したまま、エリミナが店の入り口まで見送りに来てくれる。
「本当は私も一緒に行きたいけど、邪魔になっちゃうから、大人しくおじいちゃんと店番してるわね。デートがどうだったか気になるから、明後日詳しく聞かせてね」
明日は店の定休日なので、次にエリミナに会えるのはおそらく明後日だ。
手を振るエリミナと別れて、ナディアは使用人二人と共に近くの乗り合い馬車の停留所まで歩いた。
店の前は大通りで長く馬車を停めておくと通行の邪魔になってしまうため、エリミナと使用人を乗せてきた屋敷の馬車は既にエリミナの自宅へと戻っている。定刻になればエリミナを迎えに馬車がまたやって来るが、使用人二人は本来の仕事に戻るために先に公共の馬車を使って屋敷に戻るという話だった。
劇場とエリミナの屋敷があるのは反対方向だ。先に使用人が乗る方面の馬車がやって来て彼女たちを見送ってから、ナディアは停留所の長椅子に座って劇場方面の馬車を待った。
さすが首都の公共交通機関ともあり、時刻表を見ればわりと短い間隔で運行されているようだった。たまたま他に並ぶ客もいなくて一人で待っていると、時刻表の時間よりも早い時刻で馬車がやってきた。ナディアはその馬車に乗り込んだが、馬車の中に先客はいなかった。
ナディアは普段からあまり馬車を使わない。節約したかったのと体力には自信があるので移動はだいたい徒歩が多い。そのため案内役の男が一人いるだけの閑散とした馬車内を見てもそれほどおかしいとは思わずに座席に座った。
本日も本当は劇場までの移動は徒歩でもよかったのだが、数日前にゼウスが古書店までやってきて、車代だと言って馬車の代金を無理矢理置いて行ってしまった。最初はゼウスが仕事終わりに同じく仕事終わりのナディアを店まで迎えに来るはずだったのだが、ゼウスが想定外の仕事が入ってしまったとかで劇場前での待ち合わせとなった。
ゼウスはその際、「もしかしたら約束の時間より少し遅れてしまうかもしれないけど、必ず行くから待っていてほしい」と、真剣な顔で告げてきた。
様子が少し変だったので何か厄介な仕事なのだろうかと思い聞いてみたが、「大丈夫だ」としか言われなかった。
車代を使わなかったらネコババになってしまうと思い、ナディアはゼウスの好意に甘えることにしたのだった。
車輪が硬い道を走る音と馬蹄の音が響き続ける――
考え事をしていたナディアは、ふとおかしなことに気付く。
公共の馬車は各停留所で必ず停まるのに、この馬車は先程から一度も止まらずに走ったままだ。窓の外を見れば首都の象徴である旧王宮からは遠ざかっている。劇場は旧王宮にほど近い場所にあるはずなのにおかしい。乗り込む方面を間違えたわけではないと思う。
ナディアが座席から立ち上がると、気付いた案内役の男が近付いてくる。
「お客様、危ないですので立ち上がらないで下さい」
乗った時はあまり気に止めていなかったが、身体が大きくて目をギラギラさせた四十代半ばくらいの嫌な感じの男だった。
「降りたいの。次の停留所で停まって」
「申し訳ありませんが、この馬車は目的地まで止まらないので、それまで大人しくしやがって下さい」
丁寧語とぞんざいな口調を混ぜながら男が銃を突きつけてくる。ナディアは一瞬肝が冷えた。
(もしかして、獣人ってばれた?)
「目的は何? どこに向かっているの?」
男を睨みながら緊張を孕んだ声で尋ねると、男は嗜虐性を含んだ下卑た笑みを浮かべながら見下ろしてくる。
「守秘義務があるから依頼主のことはあんまり詳しく言えねえけど、とにかくあんたはとあるお偉いさんに恨まれちまったようだ。あんたが邪魔だから、どこでもいいから娼館に売っ払ってくれだとさ」
「娼館って……」
まさか獣人ばかりを集めた専門の娼館でもあるのだろうかと思ったが、「どこでもいい」という言葉からそういった施設があるわけでもなさそうだ。
娼館に売られる理由は「お偉いさんに恨まれた」ということのようだが、身に覚えはない。そこに「獣人だから」という理由も含まれているかもしれないし、まだ油断はできない。
絶句した状態のナディアに男が銃を突きつけたままニヤニヤと嫌な笑みを向けてくる。
「あんた、胸はでかそうだし顔もまあまあだな。娼館に着く前に味見させてもらおうか」
男が舌なめずりをしたのが気持ち悪くてナディアは顔をさらにしかめた。
(こんな男でも抱かれたら番になっちゃう! 最悪っ!)
「ねえ、あなた…… 私の正体知ってる?」
「あ? 古書店勤めのただの小娘だろう?」
ナディアはほっと息を吐いた。「獣人だから」という理由で拐かされたわけではないらしい。秘密は漏れていないようだ。
安心したナディアはにっこりと微笑んだ。
「私はね……」
ナディアは目を見開いた。
「『失われた古の古武術使い』よ!」
ナディアは頭に浮かんだ適当な言葉――「古い」の意味が二重になったような――を述べながら、男の顔に鉄拳をお見舞いした。