5 据え膳にストップ
また一瞬で目の前の光景が変わる。心配そうな表情でこちらを見ていたアテナと、アテナの肩に乗ったノエルの黒い鳥の姿が消えて、ナディアたちはそれまでいた部屋よりも広々とした、明らかに別の部屋に立っていた。
ここは隠れ家のリビングらしい。隠れ家は国の北部にある険しい山脈の奥深くに位置する、切り立った崖ばかりの場所だそうで、標高もかなり高いらしく、部屋の中はひんやりとしていて少し肌寒い。
森林限界も突破している為に隠れ家の周囲に緑はない。そのせいで目隠しになるようなものは何もなく、剥き出しのドデカい家が山の中にドーンと建っているわけだが、付近に断崖絶壁が多すぎるせいで、地表からここに辿り着ける者がいる可能性は限りなくゼロに近く、動物もほぼ訪れない場所と聞いている。
ゼウスは、国内にあるアークが知らない隠れ家の二択のうち、見つからない可能性がより高い方を選択していたが、アテナたち曰く、「この場所に家を建ててみたのはいいけれど、冬は暖炉の火が消えれば凍死する可能性もありそうで、冬が来る前に別の場所へ移る必要があるかも」とのことだった。
ここは空気が薄いので高山病になる可能性も高いようで、マグノリアが魔法で空気の成分を調整して、この環境に徐々に慣れるようにしてくれるそうだ。
エヴァンズ邸から持ってきた荷物を整理している間、マグノリアは鳥を使って夫のロータスと娘のカナリアに接触を図っていた。
マグノリアたちは処刑が発表されていたナディアを助けに処刑場に訪れていたらしい。
マグノリアはロータスとカナリアを自宅まで転移させると、そこに鳥を置き、この隠れ家と同様に結界を張って万一の襲撃に備えた後、処刑場からいなくなったというヴィクトリアの行方を追っていた。
集中して探したいからと、マグノリアは隠れ家の一室に籠もると言い出した。
「二人とも、追われる立場になっていつ命を落とすかもわからないんだから、後悔しないように生きてね。
一階のお風呂を魔法で沸かしておいたから、初体験前に必要だったら使って。大丈夫よ、二人の愛の営みを覗いたりなんてしないから」
マグノリアは重い言葉と軽い言葉を残して、二階に行ってしまった。
「……ナディア」
階段を登るマグノリアの背中を見つめながら考えていると、ゼウスに名前を呼ばれた。
振り返ると、少し頬を朱に染めたゼウスがすぐ近くにいた。ゼウスが至近距離にいると、彼の全身からうっとりするような匂いがたくさん漂ってきて、頭がクラクラする。
ナディアは、エヴァンズ邸で目覚めたマグノリアに、ゼウスへの『番の呪い』――しかも『本物』――にかかっていると指摘されていた。
言われてみれば、『確かに処刑場でゼウスを見た時に、カチカチカチと音が鳴っていたわ!』とナディアは喜んだ。
ナディアは、身体を繋げていなくても既にゼウスは自分の番であり、現在ゼウスの全てに吸い寄せられていて、以前にも増してゼウスのことが大好きすぎて、小躍りでもしそうな状態になっている。
ナディアはゼウスに誘われればそれだけでもう逆らえず、今すぐに服を脱ぎ捨てて、「好きにして」と、猛烈な勢いで彼に全てを捧げたくなるが――
「待って」
その前に話をしておくべきことがあると思ったナディアは、待ったをかけた。
ナディアのその言葉に、彼女の腰を抱いて浴室に向かいかけていたゼウスの動きが、ピタリと止まった。
「…………俺じゃ嫌だった?」
ゼウスの、澄みきった清らかな空色そのものだったはずの蒼い瞳から、光が消えていた。
重く陰鬱さを含んだ憂いのある表情でこちらを見つめてくるゼウスの顔には、まるで、「捨てないで」と書いてあるようだった。
予想外にゼウスの隠された仄暗い闇の存在を見てしまったナディアはびっくりした。
ナディアは、ゼウスの言い方から、もしかしたらシリウスのことが頭にあるのではないかと思った。
「違うの! そうじゃないの!」
慌てて弁明する。
「私の唯一はゼウスだけなの! 私だって今すぐゼウスと一つになりたい! ゼウスが世界一大好きよ!」
ナディアはゼウスに抱きついて、ゼウスの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
万が一、もしもまた最愛のゼウスと離れ離れになるようなことがあれば、「捨てないで!」と縋るのはきっとナディアの方だろう。
「私にはゼウスしかいないけど、ゼウスは私と寝たら、本当に『悪魔の花婿』になってしまう…………
ゼウスはそれで後悔しない?
私が処女じゃなくなったら、身の潔白を証明する方法がなくなるし、銃騎士にだってもう戻れなくなってしまう…………」
身体を繋げたらおそらく言い訳はできなくなるし、完全に人間たちから追われる身になって、ゼウスは普通の暮らしをすることも難しくなるだろう。
熟考する時間的余裕もなくて、勢いでここまできてしまったが、もっと良く考えれば、ゼウスに負担のない方法があるような気がした。もう一日二日くらいなら、合体するのを涙を呑んで我慢できるとナディアは思った。
闇感を消したゼウスはナディアの身体を抱きしめ返してくれて、しばしの間沈黙していた。
「…………俺、ナディアがいなくなって、君を『殺したい』なんて思うくらいには、ずっとおかしかったんだ」
ゼウスが語り出す。
「俺は弱い人間だ。『必ず守る』と約束したのに守れなかった。俺の行動のせいでナディアを傷付けたことは、本当に申し訳なく思っている。
俺は剣も銃ももう握りたくはないし、ナディアを殺しかねない行為は二度としたくない。
たぶん、銃騎士を辞めることは、俺にとっては必要なことなんだ。
だから、俺が銃騎士を辞めることについて、ナディアが気に病むことはないよ。
姉さんにも言ったけど、ナディアと銃騎士なら、俺はナディアを取る。
ナディアと共に生きていく道が、『獣人奴隷』という方法しかないなら仕方がないと思っていたけど、そうしなくても一緒にいられるのなら、それでいいんじゃないかな。
少なくとも、ナディアが奴隷になるよりは、俺が銃騎士を辞めた方がいいと思う。
偽名とか、もう使う必要もないし、ありのままのナディアでいてよ」
そう言ってナディアを見つめてくるのは、あの頃の優しいゼウスだった。
「いいのかな」
「いいんだよ」
「私はもう二度とゼウスを離してあげられないけど、いい? もしもゼウスが心変わりをして、私のことを嫌いになっても、私は逃げたゼウスを探して、地の果てまでも追いかけるけど」
「それもいいね」
ゼウスはそう言って、とても嬉しそうに笑った。
「心変わりなんてするわけないけどね。俺はナディアがいない生活には戻りたくない。
それこそ、ナディアの記憶が俺の中から全部消えるようなことでもない限り、俺は君を愛し続けると思う」
お互いを求めて愛する気持ちが重なり合った時、二人の唇も自然と重なっていた。




