21 恋の芽 2
ゼウス視点
ゼウスは微笑みを浮かべていたが、心の中は殺気立っていた。
馬に跨ってゆるゆると進むゼウスとレインの周囲には、わらわらとご婦人方が集まって来てしまっていた。前半のゼウスの仏頂面もあったせいか途中までは規制線を越えて先頭のゼウスたちの元へ来る者はいなかったが、パレードも終盤に差し掛かってくると観客たちも焦りがあったのか、一人が規制線を突破すると雪崩を打ったように次々と後に続き、結果ゼウスは女性たちに囲まれる始末となった。
「危ないから下がって!」と警務隊員がすぐ近くで進行を阻むように立ち塞がり叫んでいるが、彼女たちは何のその、怖気づくどころか勢いを増して、「サインを!」「写真を!」「プレゼントをどうぞ!」と迫ってくる。
レインに無下にはするなと視線で促されて仕方なく出来る範囲で応じているが、写真を共に撮ろうとすれば身体をベタベタと触ってきたり馬に乗ろうとしたりするような者までいたし、サインに至っては婚姻届を出されてサインしろと言われて以降は恐ろしすぎて全て断った。プレゼントなんてもう爆弾でも詰まっているのではないかと錯覚してしまう。
(去年は新人一年目であまり顔が知られていなかったからか、ここまで酷くはなかったのに)
ゼウスは困ったような微笑みを浮かべて彼女たちから距離を取ろうとしたが、中でもゼウスの熱烈な信奉者たちは引き下がらない。
「好きなんです! 付き合ってください!」
――無理。
「お願いします! 結婚してください!」
――無理。
「愛しています! 抱いてください!」
――無理。
破れかぶれの笑顔だけで断り続けるが、彼女たちもゼウスの潔癖ぶりには慣れている。むしろ近くでご尊顔を拝見できて落ち込むどころか目を爛々と輝かせて獲物を狙う狩人のように迫り来る。
(もういい。モテなくていい。お腹いっぱい)
ゼウスも思春期の真っ盛りの男子ではあるが、彼女たちを見ていると恋人を持ちたい願望が急速に萎えていく。例えば彼女たちの中から誰かを選んで恋人になるだとかは、全く以て考えられない。
隣を見ればレインも似たような状況だが、中には男性もいて、彼らから「兄貴!」と呼ばれていたのにはちょっとげんなりした。
人の波が引くかパレードが終わるかして早くこの時間が終わらないかなと魂を彼方へ飛ばしかけていると、目の前にすいっと姉の満面笑みの写真が飛び込んできた。
「すみません、サインをお願いします」
ゼウスはちらりと姉の写真集を差し出した相手を見た。茶色の長い髪をしたこれと言って特徴のない少女だったが、ゼウスはさほど気にも止めずすぐに視線を進行方向に向けて逸らした。その頃にはもう愛想笑いもやめていた。
「申し訳ありませんが今日はもうサインはしません」
「はい。あなたのサインはいりません。欲しいのはあなたではなくてお姉さんのサインです」
これまでにない切り返しをされて興味を引かれ、ゼウスはその少女を再び見た。
自分と同じくらいの年頃の、意志の強そうな茶色い目をした少女だった。
「私の友人があなたではなくてあなたのお姉さんのファンなんです。私自身もあなたにはこれっぽっちも興味は無くて、むしろあまり近寄りたくないくらいなのですが、事情があり友人が来られなかったので代わりに来ました」
「何言ってるのよこの子」と周囲にいた女性たちの非難する声が聞こえるが、茶髪の少女はあまり意に介していないようだった。ゼウスは何も言わずただじっと少女を見つめている。
「お手数をかけて大変申し訳ないのですが、この写真集にお姉さんのサインを入れて頂き、後日、南大通りのウィンストン古書店までお持ち頂けないでしょうか。私はそこの従業員のメリッサ・ヘインズという者です。私はたいていその店にいますので。いなかったら店主に預けておいてください。お礼はこれです」
そう言って少女はゼウスが良いとも悪いとも言わないうちに彼の手に人気舞台のプレミアチケットを握らせた。
「まあ、何て不躾なのかしら」
「あんなものなら私の家でも用意できますわ」
少女が働いていると発言したことや服装から平民だと理解した周囲の貴族女性たちは、自分たちの行動を棚に上げて少女を批判し始める。ざわめきが広がって行き、それを聞いて隣の馬上にいたレインもゼウスがいる方向を振り向いた。茶髪の少女を視界に入れたレインは驚いたような顔をしていた。
ゼウスは未だ黙ったままだが、少女を真っ直ぐに見つめて視線を離さない。
動いたのは、ゼウスのかなり近くにいたシャルロット・アンバー公爵令嬢だった。
「ゼウス様ぁ、こんな失礼な子の言うことなんて聞いてはいけませんわ。その舞台に興味がおありでしたら、今度公爵家でもっと良い席をご用意致しますから、今度私と一緒に行きましょう? そうだわ、デートのお約束は観劇にいたしましょう! そうしましょう!」
媚びるような甘えた声の中に少し焦ったような響きが混じっていたが、ゼウスはシャルロットを完全に無視した。
「わかった。後で届けるよ」
ゼウスの性格からして断るだろうと踏んでいた周囲の面々は、彼が少女に向けて話した言葉に衝撃を受けた。シャルロットも眉根を寄せて不快そうな顔をしている。
「ありがとうございます。ではよろしくお願いしますね」
ニコリとこの場で初めて笑みを見せた少女は、写真集をゼウスに渡すともうこの場に用はないとばかりに背を向け、さっさと人垣から離れて行った。
その背中が見えなくなるまで、ゼウスは彼女を見つめていた。