10 さよなら
ゼウス視点
ゼウスは三番隊の任務にてブラッドレイ侯爵領に赴いていた。
隊の任務自体は終わり翌朝には帰途に就くゼウスは、活気付く街の様子を眺めつつ、もしかしたら彼女に会えるのではと期待しながら街を歩いていた。
貴族になってしまったジュリアスには、当然それを支えるための人材が必要になる。
ジュリアスは他国で病気療養中だった――そんなものは嘘っぱちだが――すぐ下の弟シリウスの病状が回復傾向にあるとして、帰国させて自分の元に呼び寄せていた。
シリウス自身は貴族籍ではないが、ブラッドレイ家の家令になるらしい。
ノエルから聞いた話だと、シリウスは銃騎士隊の仕事からは完全に手を引き、これからはずっと兄を支えていくことにしたそうだ。
嫁と共に。
シリウスは療養中に現地の娘と恋仲になっていた、とされ、帰国後に「ナディア」という名のその女性と結婚してしまった。
ゼウスは、既に人妻となってしまった女性に手を出す考えはない。
彼らの結婚式だって、ノエルと姉のアテナは招待されていたが、自分は呼ばれなかった。
まあ、一応親戚とはいえ普通に考えたら呼ぶわけないよな、とは思っていたが。
ゼウスは後から花嫁衣装を着ているナディアの写真を見て、号泣した。
処刑場からナディアがシリウスと共に消えた、あの時――――
ゼウスはナディアに対する途方もない罪の意識を抱えていた。
しかし、ナディアに対する申し訳なさは消えずにずっとゼウスの中に存在しているというのに、一体どうしてナディアがシリウスに連れ去られる流れになったのか、不思議と思い出せない。
何か重大なことがあった気がするのに、そこだけ記憶が抜かれているような感覚だった。気付いた時には、ゼウスはアスターの剣を握り締めて泣いていた。
ゼウスはナディアが自分の元にはもう戻ってこないと確信していて、喪失感を感じていた。
少なくともその時はゼウスはその重大なことを覚えていた気がする。なのに時間と共に記憶は薄れ、罪の意識だけが残った。
ゼウスはナディアが無事なのか確認したくて、彼女を必死で探した。
数日行方不明になっていたノエルが姉の元に戻ってきたので、ナディアを知らないか尋ねた所、ノエルは珍しくしどろもどろになっていた。
半分脅すようにして聞き出したのは、ナディアとシリウスが番になってしまったという衝撃的な内容で――――
失恋確定後は、姉がアスターに失恋した時のような廃人状態に近いものがしばらく続いた。
それから、自分に銃術を仕込んでくれた恩人であり、敬愛する上官フィリップが亡くなってしまったことも相まって、その間は寮に閉じこもりきりになり、仕事も休んで泣き暮れていた。
ただ「結婚式写真」の衝撃後は、丸一日泣き続けた後に死んだように眠り、翌朝には出勤していた。
獣人にとって番が絶対的な存在であることはゼウスも承知している。自分はナディアのいない現状を受け入れて生きていくしかない。
理屈ではわかっている。けれど時々無性に彼女に会いたくてたまらなくなる。
だから用もないのに、もしまだ運命が生きていたなら一目だけでも会いたいと、仕事で訪れたことをきっかけにナディアが暮らすこの街を散策していた。
ナディアの現状が幸せであることをこの目で確認できたら、あとはもう写真の彼女だけで我慢して、自分は完全に身を引こうと決めて――――
そして――――
「ナディア……」
ゼウスは見つけられた奇跡に目を見開いた。
久しぶりに見る彼女は最後に見た時よりも髪が長くなっていて、とても綺麗で、交際していた頃よりも大人になっていた。
ナディアは新しくできたばかりの文具店で何かを物色しているようだった。
硝子張りの窓の向こうにいる、今でも思いが消えない愛しい人は、ゼウスがいる外の方向に目をやると、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから、満開の花が咲いたような喜びに溢れた笑顔を見せてきた。
「……っ!」
ゼウスは固まった。まるで太陽のように眩しい笑顔に胸が貫かれて、しばらく動けなくなっている間に、彼女が店から出てくる。
ナディアは笑顔を向けたまま手を振りこちらに駆けてくる。ゼウスも手を上げてそれに応えようとした所で――――
「シーちゃん!」
彼女は自分ではない別の者の名を呼んでから、自分の横を走り抜けていった。
振り返ると、その先には白金髪に灰色の瞳を持つ美しすぎる青年がいて――――彼は、車椅子に乗っていた。
あの処刑場で別れた後にシリウスに会うのはこれで三回目だ。
『初めまして』
一度目は姉の産後、母子を見舞いに来た時だ。
会うのは初めてではないのに、そんな挨拶をされて白々しいと思ってしまった。
シリウスはナディアのことも、南西列島で起こった出来事も、何も語ることはなく、姉やノエルや共に来ていた他のブラッドレイの兄弟たちと雑談をしたのみで、祝いの品を渡すと用事があるからと来訪者の中で誰よりも早く帰ってしまった。
シリウスは自分との間にあった何もかもを無かったこととして扱っているように見えて、少し腹が立った。
二度目は姉とノエルの結婚式だ。姉の子供が首も座りお座りができる頃に、どっちの名字になるのか決まらず妊娠もあって延期されていた式がようやく挙げられた。
お互いに新郎新婦の兄弟なのだから出席しないわけもない。
シリウスは介添人と共に――――車椅子に乗って現れた。
式の前日に、招待していたシリウスの妻ナディアが体調不良により参加できないことと、シリウス自身も体調がすぐれない、かもしれない、というどこか歯切れの悪い話はノエルから聞いていた。
『……兄さんは任務中の事故の後遺症で、時々歩けなくなったり、意識が失くなって数日目覚めないこともあります。銃騎士隊を辞めたのは、そういう事情もあります』
姉と子供を見舞いに来た時はそんな素振りは見せなかったが、もしかすると意地を張っていたのかもしれない。
精神感応でそう伝えてきた主役であるべき新郎を見れば、ノエルの瞳が少し不安そうに揺れていた。
別にシリウスと会ったからといって、姉とノエルのめでたい日にシリウスと揉めたり騒動を起こすつもりなんて微塵もなかったが、何かあるかもしれないとノエルはずっと不安だったのだろう。
ゼウスは、友であり義兄となったノエルに心配させてしまったことを恥じた。
諸々のことを未だに根に持っている自分よりも、禍根を残さないように敢えて「何もなかった」として対応するシリウスの方が大人なのだと思ってしまった。
もう、ナディアの番がシリウスであることはどう足掻いても覆りようがない。過去だけを見つめるよりも、これからは未来に目を向けていくべきなのだと思った。
以降ゼウスは、シリウスは番のナディアを必ず幸せにするはずだと信じ、ナディアへの気持ちに終止符を打とうと葛藤し続けたが、藻搔き苦しんだ結果、思いを完全に捨てきることは無理だった。
別に相手が人妻だろうと、実際に手を出すことは一切せずただ思っているだけなら罪ではない――――という落とし所で落ち着いた。
会って話をすることまではしなくてもいい。ただ、最後に彼女の姿を一目見ておきたかった。
ナディアが自分に笑いかけてくれたような気がして、ゼウスの中に魂が救済されたような感覚が生まれたが、それは一瞬のこと。
ナディアは満面の笑みのまま自分ではなくて彼に近付き、まるで長年会えなかった恋人と再会できたようなはしゃぎっぷりで、シリウスに抱きついた。
「ごめんね、ちょっと買い物に出るだけだったんだけど、戻るのが遅かった? また倒れそう? 具合悪い?」
「大丈夫。会いたくなったから見に来ただけだよ。俺の誕生日プレゼントを選ぶナディアちゃん好き♡」
「なっ…… バ、バレてる……」
二人は話をしながら始終笑顔で、お互いに相手に対して慈しみを持った確かな愛情を注いでいるのが、一見しただけで丸わかりだった。
(ナディアは俺のことなんて見ていない。彼女の視界に俺は入らない)
彼女はただシリウスだけを見つめている。
(ナディアと俺の間には一枚の透明な壁があって、俺はもうそちら側には行けない)
隊服のままのゼウスは腰に差したアスターの剣をぎゅっと握りしめた。
ゼウスは最後に、車椅子を押しながらシリウスと共に去っていく、ナディアの後ろ姿を目に焼き付けてから、自身も踵を返し、号泣しながらその場を去った。




