19 独り者
あの事件のあとエリミナはしばらく入院していたが、見舞いに行っても彼女は事件の衝撃から回復していない様子で、ずっと放心状態だった。脚を銃で撃たれて強姦されかかったのだから無理もない。とてつもない恐怖を感じたのだろうと思った。
退院の時にも元気がなさそうで、ナディアはとても心配していたが、数日後に自宅療養中のエリミナを訪ねた所、暗い雰囲気は影を潜め彼女は明るさを取り戻しつつあった。
退院後、エリミナのことで大きく変わったことが一つあった。
エリミナにはアーヴァインの匂いが強く纏わりついていた。
二人はずっと清いままだったが、思う所があったのか絆を結び合ったようだ。
この国の国民は早熟だ。あまりにも年齢が低すぎる場合は行われないが、恋人になれば婚前交渉当たり前、婚約者ともなればさもありなんという風潮がある。エリミナは以前そういう雰囲気になるとアーヴァインがいつも鼻血を噴き出してしまうのでそれ以上進展しないと言っていたが、ついに男を決めたらしい。
アーヴァインと一緒にいるエリミナはとても幸せそうだ。辛い経験はしたが、彼女ならきっとそれを乗り越えていけるだろうと思った。
友人二人の幸せを喜びながらも、ナディアの胸には幾許かの寂しさが生まれていた。
(私も恋したい……)
そんなことを考えて、一瞬だけあのいつもヘラヘラと笑っていた陽気な男のことが頭に浮かんでしまったが、すぐに追い出す。
(ないないない。中身変態だから無理)
現在周りには人間ばかりであり、元々自分の番は人間になるのだろうと思っていたしむしろ望む所なのだが、ナディアの場合は彼女が獣人であることを了承してくれる相手でなければならない。現状、生きるために正体を隠して人間だと偽っているわけで、好きになれそうな人と出会った所で超マイナスからのスタートだ。
しかも人間たちは獣害を防ぐために早くから男女交際を望む者たちがほとんどで、性経験の無い者を探すのはかなり困難に思えた。獣人は異性と関係したことのある相手は恋愛対象外になる。稀に父のような例外もいるが、ナディア自身はそうではないようだった。
実はナディアはアーヴァインと最初に会った時、大きな黒目がくりくりしていて可愛いなと思っていた。アーヴァインはエリミナの婚約者なので奪うなんてことは考えもしなかったが、実際問題として空き家でアーヴァインに抱きつかれた時、彼に異性を感じてちょっとドキドキしてしまったことも事実だった。
しかし、アーヴァインが大人の階段を登ってしまった途端、そんな淡い思いは泡のように消え失せ、同性の友人に対するような親しみの情だけが残った。
里にいた頃は恋愛するなんて夢のまた夢くらいに思っていたが、人間社会に移った所で状況はさほど変わらず、むしろ悪くなったような気さえして、自分が恋人を得るのはなかなかに難しいように感じられた。
「ううっ、せっかくの機会なのに」
怪我がまだ完治せず上手く歩けないエリミナはパレードを遠巻きにしながら悔しそうにしている。
「そう気を落とすな、俺がすぐに先頭まで連れてってやるよ」
何を思ったのかアーヴァインはしゃがみ込むと、エリミナに背中を向けて乗れと促した。
「アーヴァイン様、そのようなことは我々がやりますので」
「いいんだよ、妻を喜ばせるのは夫の役目だろ」
「アーくん、まだ早いよ」
エリミナはそう言いつつも嬉しそうに顔を綻ばせ、護衛に手伝ってもらいながらアーヴァインの背に乗る。
「よく捕まってろよ」
アーヴァインがそのまま歩き出そうとするが――
「ごめん、私は待ってるよ」
声を出したのはナディアだった。振り返ったアーヴァインがやや戸惑った顔をする。
「姐さん一緒に来ないのか? なんで?」
アーヴァインが舎弟になる話は固辞して敬語もおかしいからやめてほしいと伝えていたが、彼の姐さん呼びだけは直らなかった。
二人はこれからパレードの先頭に向かう。つまりは、先程見かけたあの金髪碧眼の美形銃騎士ゼウスに会いに行く。
あの、どこかナディアの異母姉に似た面影を持つ少年に。
その銃騎士のことはエリミナが大好きなアテナ様の弟であることぐらいしか知らないし、彼自身が何か悪いわけではないのだが、ナディアとしてはあまり近寄りたくなかった。
「少し人に酔っちゃった。後で合流するから先に行ってて」
「メリッサ?」
エリミナも首を傾げて声をかけたが、背を向けたナディアがまるで身を隠すように人波に紛れてしまうと、彼らもそれ以上は声をかけあぐねたようだった。
ナディアはしばらく二人の進行方向とは逆に歩いてから、香ばしい匂いに誘われて露店で串焼きを購入した。
『久しぶり』
いきなり脳内に明瞭な美声が響いた。耳から聞こえるのとはちょっと趣きの違う声だ。
ナディアは露店の隣にあった大きめの木箱の上に座り、パレードを観覧する人々と距離を置きながら棒に刺さったイカ焼きを食していたのだが、イカを齧ろうと口を空けた所でその声が聞こえ、ピタリと動きを止めた。
見ればパレードの殿、羨ましいほどに恵まれた容姿をした白金髪の美丈夫が、こちらを向いて微笑んでいた。ほんの少し前まで彼はご婦人方に囲まれて揉みくちゃにされる一歩手前だったが、警務隊の働きにより無法者たちは規制線の外にまで出されている。
大口を開けている所を見られてしまったナディアは恥ずかしくなりすぐに口を閉じた。
『義妹の元気そうな姿が見られて良かったよ』
(義妹じゃないわよ!)
目力だけで異論を唱えてみるが、ジュリアスの微笑みは変わらない。精神感応は一方通行らしくこちらの意志を強く伝えることができないのが口惜しい。
『シリウスは君のことをとても思っているから、早く受け入れてもらえると嬉しいよ』
精神感応は「聞かない」という選択が出来ない。これは新手の嫌がらせか何かかと思いながら、ナディアはジュリアスに構わずイカに齧り付いて仏頂面のまま咀嚼する。
『シリウスは実は――――』
ジュリアスは散々オリオンをオススメする言葉を紡いだ後、続けて深刻そうな声音で何か言いかけたが、その言葉が途中で止まる。
見れば、ジュリアスが隣にいた灰色の髪に銀縁眼鏡をかけた銃騎士が乗る馬にかなり幅寄せしていて、彼の前にその長い腕を伸ばしていた。
ジュリアスの突然の行動に灰色の髪の銃騎士は何事かと瞬きを繰り返しているが、ジュリアスは何食わぬ顔で表情を崩さないまま正装用の白い手袋で掴んでいたそれを懐にしまった。
ジュリアスが目立たせずに処理してしまったので何が起こったのか正確に把握できたものはそれほどいないだろう。
ナディアは気になって彼らの周辺を嗅覚で注意深く探ってみたのでわかったが、ジュリアスが掴んでいたのは銃弾ではないが丸い小さな鉄の玉だった。僅かにゴムの匂いもしたので誰かが弾いて飛ばしたのだろう。
鉄の玉はジュリアスの隣にいる灰色の髪の銃騎士に真っ直ぐ向かっていた。勢いよく飛んで来たようだったのでもし当たっていたら流血は免れなかっただろう。いたずらにしては少し質が悪いかもしれない。
ジュリアスは隣の銃騎士と二言三言話した後、なぜか彼の身体を片腕だけで攫うように引き寄せて自分の馬に乗せてしまった。銃騎士は眉根を寄せて背後を振り返りジュリアスに何か――たぶん文句――を言っているが、ジュリアスは構わず後ろから彼に抱きついた。
そこかしこから絶叫が上がる。男二人の距離感の無さに対する黄色い声と、それとは間逆の恨み節のような怨嗟の声が入り混じり、また規制線を越えようとする民衆を警務隊が抑えにかかり現場は大混乱。
膨らみ始めた熱気を尻目に、状態変化に慌てる銃騎士を抱きしめながらジュリアスはとてもいい顔をしている。それはパレードの最中に民衆に向けていたものとは本質的に何かが違っていた。その笑顔は、たぶん彼にしか向けないものなのかもしれない。
ジュリアスの興味が自分から灰色の髪の銃騎士に移ったようなので、イカ焼きを食べ終わっていたナディアはこれ幸いとその場から離れることにした。