1 光と影
ジュリアス(シリウスの兄)視点→シリウス視点
首都中枢に位置する銃騎士隊本部。
二番隊長の執務室で一人仕事をしていたジュリアスは、窓からの陽が当たらず暗くなった壁の一角に突如現れた人物に気付き、瞬時に幻視と防音の魔法を執務室の周囲にかけた。
ジュリアスは魔法使いだ。そのことはごく一部の者しか知らない。
「兄さん、すまない。しくじった」
声は幼さの残る若い女のものだ。部屋の影になった部分からその人物が一歩踏み出す。
眼の前にいるのは、茶色の瞳を持ち、波打つ茶色の髪を肩まで降ろした十代前半ほどの少女だった。
「シリウス……」
ジュリアスは椅子から立ち上がり、その人物の本名を驚きと共に呼んでいた。
家族だけでいる時、他の者に彼らの秘密が絶対に漏れることのない場面では、兄ジュリアスは弟を真名で呼ぶ。
眼前の少女の正体は、ジュリアスのすぐ下の弟であるシリウス・ブラッドレイだ。
シリウスもジュリアスと同様に魔法使いだった。少女の姿をしているのは自身の姿替えの魔法によるものだ。
少女の姿が一瞬にして青年の姿へと変わる。
白金色の髪を持ったシリウスの面差しはジュリアスに似ていて、冴え渡るような類稀なる美貌を誇っている。
ただ、シリウスの瞳の色は灰色で、紺碧の瞳を持つジュリアスとはそこが違っていた。
「妙な動きをしていることをシドに勘付かれた。ごめん、逃げてくるしかなかった。『ミランダ』はもう使えないな」
声も男性の低いものに変わる。ジュリアスの目の前にいる青年こそが、任務上は『オリオン』と偽名を使い、銃騎士隊の面々の前では茶髪の少年の姿を取る弟シリウスの真の姿だった。
ブラッドレイ家は有名な一家で、シリウスという名前からブラッドレイ家の次男を連想する者は多い。
シリウスは獣人の里に潜入すると決めた時から『シリウス・ブラッドレイ』という本来の自分の存在を消してしまった。
シリウスは表向きは急な病に倒れ、医療の進んだ海の向こうの専門病院に入院していることになっている。
そして『オリオン』と偽名を使い、ジュリアスたちの指示の元で諜報活動に特化した役を担うようになった。
偽名を使っているのは正体が暴かれることを防ぐ意図もあるが、シリウスにとっては一つのけじめのようだった。
『オリオン』がいなくなって『シリウス・ブラッドレイ』に戻る時、自分たち兄弟の目的は達成されているだろう。
ジュリアスがかけた魔法のおかげで執務室の会話が外に漏れることはないし、もし窓から誰か覗き込む者がいたとしても、ジュリアスが一人きりで机に向かい仕事を続けているようにしか見えないだろう。
「任務のことは気にするな。お前が無事に戻ってきて良かった。だが……」
ジュリアスが先程から困惑気味なのは、シリウスが腕に一人の少女を抱えていたからだ。
その長い茶色の髪の少女に怪我をしている様子はなさそうだが、気を失っている。シリウスが獣人の里から連れてきてしまったようだ。
「魔法のことを知られてしまったからあのまま里には置いておけなかったんだ。兄さん、この子が前に話していた子だよ。俺、この子と結婚したい」
弟の結婚宣言にジュリアスは目を丸くしたが、やがてその顔に綺麗な笑みが浮かぶ。
「わかった。お前が好きな子と幸せになれるなら俺も嬉しいよ。
問題は父さんが良いと言うかだけど、今ちょうど不在にしているんだ。戻ったら俺と一緒に許可を貰いに行こう。その子の戸籍はこちらで何とかしておくから」
「ありがとう兄さん!」
やや緊張気味だったシリウスの顔がぱっと明るくなる。
「次の潜入の準備が整うまではまだしばらく時間があるよな! 結婚式できるかな!」
無邪気な様子で喜んでいるシリウスを、ジュリアスは申し訳なさそうに見つめている。
「シー、お前にばかり負担をかけてすまないな」
『ミランダ』は獣人の里に潜入するために作り上げた架空の人物だ。シリウスにまた別の人物に成り代わってもらい、潜入経路を確保した上で里に潜伏し、敵の情報を引き出してもらわなければならない。
獣人王シドのお膝元でそれをやるのは、命懸けの行為だ。
「いいんだよ、俺が自分でやるって決めたことなんだから」
シリウスの働きのおかげで、前もってどこの場所が「狩り」の襲撃に遭うのかがわかる場合があり、以前よりも人命を救えることが増えてきた。
ジュリアスが訓練学校を卒業し、一番隊を経由して二番隊に配属されたあたりから、シリウスも諜報活動を始めている。
ジュリアスが二番隊に配属されて以降、二番隊による獣人の「狩り」場の「予測」が格段に当たるようになった。
銃騎士隊の上層部はジュリアスの能力を高く評価し、十代では異例中の異例とまで言える二番隊長代行の役まで上り詰めた。
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兄ジュリアスの隊長代行就任は自分たちの父親の意向が多分に含まれた人事ではあったが、シリウスは父親云々関係なしに真っ当な人事だと思っていた。
(兄は素晴らしい人だ)
強くて聡明で優しくて頼りがいのある自慢の兄に、銃騎士隊の隊長代行という栄誉ある役職はとてもふさわしいと思う。
ついでに、自分たちの父親であるアークを二番隊長の職から引き摺り降ろして、兄こそが二番隊長になればいいのにとも本気で思っていた。
(兄は、光輝く場所に居続けてほしい)
そのためならば、シリウスは自分の本来の存在を消すことも、命の危険に晒されることも厭わなかった。
自分は兄の手足となり、影となり、兄の支えになれることが嬉しい。兄のために生きることがシリウスの喜びだった。
(俺は、兄のために生きている)
ただこれからは、この少女のためにも生きていきたいと思う。
シリウスは腕の中の少女を見つめる。
初めて彼女――――ナディアに会った時の衝撃は今でも忘れられない。
ナディアは獣人というよりは人間に近い見た目の、どこにでもいそうな普通の少女だ。
だがシリウスにとっては特別な少女だ。出会いの場でどうしようもなく惹かれてしまった。
好きになるのは必然だった。
たとえ君が嫌だと言っても、俺は君を貰う。
シリウスは自分の実家、ブラッドレイ家に帰って来ていた。
しばらくぶりに戻った自室の寝台に彼女を横たえる。
「ナディアちゃん」
頬を撫でて声をかけてみるが彼女は目を覚まさない。シリウスは眠ったままのナディアの服に手をかけた。
シリウスはナディアから結婚の合意は得ていない。目を覚ました時に番になったと知ったら彼女は怒るかもしれない。
けれど、ナディアが敵方に当たる自分と一生の伴侶になることを同意してくれるとは限らないのだから、機会を逃さず確実に奪いたい。
強引だと責められようが、シリウスにとって生涯の伴侶はナディア一択だった。
番になってしまえば否が応でも彼女は自分を拒否できなくなる。絶対に手に入れたかった。
しかし、シリウスと兄には目指すべき場所があり、そのためにナディアの父親には死んでもらう必要があった。
(ナディアはそれを知ったら嫌だと言うかな? 泣くかな?)
自分たちの幸せのために。
自分たち兄弟が、目標とする世界のために。
速やかに、できる限り超素早く。
あの義父上様には、死んでいただかねばならない。