36 行ってはいけない
「ナディアちゃんはここで待ってて! 弟たちと一緒にいて! 俺が戻ってくるまで絶対にこの家から出ちゃ駄目だよ!」
ナディアは青褪めたままのオリオンに肩を掴まれて、強い口調で言葉をかけられた。
「待って、どういうこと?」
オリオンはナディアの疑問の声には答えずに、ナディアから手を離すとそのまま瞬間移動で消えてしまった。
「オリオン…………」
常になく慌てていたオリオンの様子から、何かとんでもないことが起こったのではないかとナディアは不安になった。
窓の外を見れば、そこにいたはずの黒い鳥の姿も消えていた。
ナディアは、あの鳥はたぶん魔法使いが作り出す鳥だと思った。
マグノリアのものは白かったから、別の魔法使い――ブラッドレイ家の誰かのものだろう。オリオンに何かを伝えに来たのだ。
オリオンはナディアには何も言わずに行ってしまったけれど、オリオンが青褪めた顔で「兄さん」と呟いていたことから、もしかしたら、オリオンの兄ジュリアスの身に何か悪いことが起こったのではないかと思った。
オリオンが兄と呼ぶのはジュリアスだけだ。
『未来視』でジュリアスに何か良くないことが起こる未来を見たのかもしれない。
ジュリアスは、清く正しく美しくを地で行くような聖人君子然とした超絶美麗な見た目に反して、中身は一筋縄ではいかない食えなさすぎる男だが、首都にいた頃はナディアが人間として生活できるように色々整えてくれたし、世話にもなった。
(オリオンは「ここにいて」と言っていたけど、同じく人間社会で暮らす獣人仲間でもあるわけだし、私にもジュリアスのために何かできることはないかしら…………)
そういえば、と、不意にナディアはなぜオリオンが今自分に会いに来たのだろうと思った。
時刻はもう昼で、父の処刑が始まるかもう終わったかはわからないが、銃騎士隊にとっては敵の総大将とも言うべき獣人王シドを屠る大事な場面だ。
たぶんオリオンも父のそばに詰めていなければいけないはずなのに、彼は銃騎士隊を辞めてきたと言った。
これは父が捕まったことを新聞で見て知った時に思ったことだが――――人間が、いや、たとえ獣人が何人束になってかかった所で、父を捕まえることはまず不可能だ。絶対に魔法使いが関わっているはずだと思った。
今回の父の捕獲劇には必ず魔法使い、即ちブラッドレイ家の面々が関わっているはずだ。
疑問なのは、そこからオリオンが抜けてきてしまって、果たして何も問題が起こらなかったのだろうかということだ。
あの父のことだから――――ジュリアスに何か突拍子も無いことを仕出かして、それを知ったことでオリオンが青褪めることになったのではないか?
(もしかしたら、ジュリアスは父様に殺されかかっている? もしくは、もう――――)
そこまで考えたナディアは、ブラッドレイ家のリビングから飛び出していた。父が何かしたのであれば止めなければいけないと思った。
父が自分の言う事なんて聞かないことはわかっているが、だからと言って何もしないでいいということにはならない。
これまでは里には帰れず機会もなかったけれど、止められるかもしれないなら行くべきだ。
オリオンには待っているようにと言われたが、何もせずにただ待っているというのは性に合わない。
廊下に出て家の中を少し迷いつつ玄関に辿り着く途中で、ロゼが出産した部屋の前を通りかかった。ナディアは一瞬だけ彼らにも状況を話しておくべきだろうかと考えて、けれど結局何も言わずに通り過ぎた。
ジュリアスに危機が迫っているかもしれない、というのは現段階ではナディアがそう考えているだけで本当かどうかはわからない。
不安にさせるようなことを言って、笑い声を立てながら朗らかに過ごしている彼らに水を差すのも悪いと思った。
とりあえずブラッドレイ家から出て、以前首都に住んでいた頃の記憶を元に建物などの位置関係を思い出しながら、街道を処刑場方面へ向かって走る。
走る速度は獣人と疑われない程度に抑えたが、ナディアの容姿では道行く人は誰も彼女の正体には気付かなかった。
しばらく走った所で、ナディアは異変に出くわした。
たぶん貴族のものだと思われる豪華な馬車が、何台も連なって慌てたように道の向こうからやって来る。
「すみません、何かあったんですか?」
ナディアは貴族の馬車の後方を単騎で走る、護衛らしき男に並走しながら声をかけた。
「獣人王シドが暴れてるんだ! 処刑は中止だ! 大変なことになるぞ!」
それを聞いたナディアは走りを緩めて止まったが、男はナディアには構わずに貴族の馬車の後について去っていった。
(……予感的中。やはりあの父があっさりと死ぬはすがなかった)
ナディアは処刑場に向かって再び走り出した。途中で何台もの貴族の馬車やそれ以外の馬車ともすれ違う。
カーテンの掛けられていない窓からは、怯えた様子で震えていたり顔色を青褪めさせている人々の姿が見えた。
逃げてくる人の数が段々と多くなってくる。逃げる人々は混乱していたり慌てたりしている者も多かった。
そのうちに、馬車から離れたのか、乗っていた人が落ちてしまったのかわからないが、背中に人を乗せていない馬が一匹走ってくるのが見えた。
それまでは全力で走れないのがもどかしかったが、馬があればより早く着けるだろうと考えたナディアは、その馬を捕まえて拝借することにした。




