35 嫌じゃない
ナディア視点→シリウス視点
出産後も様々な後処理があるはずだが、「後は僕たちがやるから、疲れただろうから兄さんたちは休んでで」と、しっかり者っぽい五男カインに言われて、ナディアがオリオンと共にやって来たのが、ブラッドレイ家のリビングだった。
「もうお昼だから、愛の逃避行はお腹を満たしてからにしようか♡」
「ナディアちゃんは座ってて♡」とソファを進められ、オリオンはリビングと続きになっているキッチンに向かうと、鼻歌混じりに料理をし始めた。
(オリオンの作ったご飯を食べるのも久しぶりだな……)
懐かしい風景だと思った。およそ二年前に首都まで連れて来られて半同棲をしていた時は、オリオンが食事の用意や身の回りのことなど全部やってくれた。姿こそ違うが、キッチンに向かう佇まいは紛れもなくオリオンのものだとわかる。
「お待たせー♡」
魔法も使いながら手早く作って出してきた料理がステーキだった。魚肉とベーコンのスープも付いている。ナディアはオリオンが作ってくれるこのスープが好きで、その後自分でも真似て作るようになった。
オリオンは他の家族の分も用意していたが、ロゼが休んでいる部屋に彼女の分の食事を届けた所、他の弟たちにはロゼが食事を終えてからにすると言われたそうだ。母親と生まれたばかりの弟から離れたくない様子だったらしい。
「先に食べよっか」
そう言われて、二人で食卓に着く。
「美味しい。ありがとうオリオン」
「うん、良かった」
真向かいに座ったオリオンはナディアを見ながらずっとニコニコしている。その表情もあの頃と変わらない。
「俺、ナディアちゃんのために毎日ご飯作るよ。洗濯も掃除もぜーんぶやるからね」
(そうだった……)
半同棲していた頃は「生活の全ては保障する」と最初に言っていた通りに、オリオンが何でもやってくれた。
しかしとても助かった反面、甘やかされてどんどん駄目になっていく気がする、とも思ったものだった。
「私だって身の回りのことくらい自分でできるわよ」
「ナディアちゃんがしたいことは止めないよ。お料理でも何でも、やりたいことはやったらいい。ただ基本は俺も頑張るよって話。
そもそもナディアちゃんが里に帰れなくなったのって俺のせいだからね。償わせてください。一生そばにいます」
「そのことなんだけど…………」
ナディアは里に帰れなくなって以降に自分に起きた気持ちの変化を、オリオンに話すことにした。
「最初は確かに頭に来てたし、生まれ故郷に帰れないなんてすごく嫌だって思ってたんだけど、人間社会に出て来てから見えてくるものもあって、里から連れ出してくれたことには本当に感謝しているの」
そう言うと、オリオンは驚いたものを見るようにナディアを見て、瞼を何度か瞬かせていた。
「そっか…… うん。ナディアちゃんらしいや」
「わあっ!」
ナディアは思わず驚いた声を上げてしまった。
なぜならば、正面にいたはずのオリオンが瞬間移動で真横にいて、ナディアの頬にキスをしていたからだった。
それだけならまだしも頬を舐められた。
(へ、変態!)
「ちょっと! 手は出さないんじゃなかったの!」
「あ、ごめんごめん。つい」
ぶん殴ろうとした時には既に正面に戻っていたので、ナディアはしてやられたとオリオンを睨んだ。
「あー♡ 可愛いなあ♡ ナディアちゃんと毎日こうやってイチャイチャできたら俺はすごく幸せだよ♡」
怒っているナディアを見てもオリオンがずっと笑っているので、ナディアは毒気が抜かれてしまって、振り上げていた拳を下ろした。
ナディアはもう一つの心の変化にも気付く。
前だったらこんなことされたら絶対に許さずに三日くらいは口を利かなかったが――――
(そこまで嫌じゃない…………)
ナディアはこの男に絆されてきたようだ――――
「ナディアちゃんだって無理矢理こっちに連れて来られて色々苦労してきたはずでしょ? ナディアちゃん、そこはね、普通は怒ったままでいい所だよ。
君のそういう真っ直ぐで純粋で、あったかくて優しくて、まるで汚れなき魂の所持者みたいに、俺をいつでもポカポカと照らしてくれる所が、俺はとっても大好きだよ」
オリオンは気恥ずかしいことを平気で言う。こっちが恥ずかしいとナディアは思った。
「ずっと俺のそばにいてよナディアちゃん。結婚しよう」
「少し考えさせてください…………」
真っ直ぐなのはオリオンだと思った。前だったら求婚を一刀両断で断っていたが、今は「この人の真っ直ぐな思いに応えなければ」という気持ちになっていた。
「ええっ! 本当?!」
これまでと違う答えが返ってくるとは思っていなかったのか、尋ねてきた本人が一番驚いていた。
「やったあああああーっ!」
「いえあの、考えるって言っただけで、受け入れるって言ったわけではな――――」
「ナディアちゃんがそんなこと言うなんてほとんど了承したようなものじゃないか! いやったぁぁぁぁぁぁーっ!」
ナディアの言葉を遮るように食い気味に言葉を返してきたオリオンに、ナディアは少し困ったように笑いかけていた。
ナディアの心の中には未だにゼウスの影があるが、けれど彼はもう二度と、ナディアの元に戻ってきてくれることはないだろうから…………
「ナディアちゃん、婚約者になったのだから、俺のことはシリウスと本当の名前で呼んでほしいな。シーちゃんでもいいよ」
「……まだなってないわ…………」
オリオンはあれからずっとはしゃいでいて、先走りすぎていた。
嬉しそうに話すオリオンの言葉を聞きながら、食事を終えたナディアは食器類を片付けていた。
皿を洗うと言うと、俺がやるよと言われたが、食事を作ってくれたのでこのくらいはすると固辞して、ナディアは食器を洗っていた。洗い終えたそばから、オリオンが魔法で乾燥させて食器棚に戻していく。
「俺自分で言うのも何だけど、結構優良物件だと思うよ」
片付けながらオリオンが自分を売り込んでくる。
(顔は最高級イケメン。結構優しいし家事全般ができてマメだし、おまけに魔法も使える。確かに完璧)
「あーでも仕事はね、今ちょっと失業中です」
「失業中?」
「銃騎士隊辞めてきたから」
それってどういう…… と言葉をかけようとしたナディアの目の前で、朗らかに笑っていたはずのオリオンの表情が急に変わった。
オリオンは真顔になり空中のある一点を凝視している。
(確か、ブラッドレイ家に来る前にも、オリオンは同じような状態になっていた……)
オリオンの顔が見る間に真っ青なものになっていく。
「兄さん……」
「兄さん?」
絶望しきったようなオリオンの呟きにナディアが小首を傾げた所で、キッチンの窓からコツコツという音がした。
そちらに目をやれば、窓の外で空中に留まるように飛んでいる、黒い鳥の姿が見えた。
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シリウスは、窓の外に現れたノエルの鳥から向けられる、悲鳴のような精神感応の声を聞いた。
『シー兄さん! 助けてください! ジュリ兄さんが死にそうです!』




