25 後ろ見て
シャルロット視点
その日の前半部は、シャルロット・アンバー公爵令嬢にとって確かに厄日だった。
その一連の災厄は、思えば日付が変わった頃から始まった。
元従者である夫ユトとの愛の寝室に夜半、いきなり「べろべろばー」と、変顔をしてふざけたクソガキが、まるで幽霊のように空中に浮遊した状態で現れた所からだ。
おどかすように眼前に現れたために絶叫を上げかけたが、ユトが的確にシャルロットの口を抑えたために、悲鳴を聞きつけた使用人が駆けつけることにはならなかった。
宗家第三位アンバー公爵家の次期女公爵として、淑やかに、美しくを主題として邁進(?)してきたシャルロットにとって、子供に驚かされて卒倒しかけた間抜けな姿を使用人たちに見せるわけにはいかなかったのだ。
「夜中にごめんねぇ~ ディオには了承してもらえたんだけど、シャル姉たちにも一応言っておかないとって思って」
絶対にごめんとか思っていない口調でセシルがそう宣う。
セシルはシャルロットの実父であり現アンバー公爵家当主であるディオンと馬が合うのか、実の親子かというくらい仲が良い。そのためにセシルは公の場以外ではディオンを愛称で呼んでいる。
次期宗主配と公爵の関係が良好なのは良いことだと思うが、一年ほど前にようやく大っぴらに親子ですと言えるようになったのに、そんな大好きな父を、セシルに取られたような気持ちをシャルロットがちょっぴり持っていることは秘密だ。
こんな夜中に何しに来たのかと思えば、セシルは爆弾を持ってきていた。
曰く、「シャル姉の以前の思い人だったゼウス先輩の失踪した恋人が見つかったけど、
メリッサこと本当の名前はナディアというその彼女の正体は実は獣人で、
今は銃騎士隊に捕まって明日の昼に処刑予定だけど、
事情があって回避させたいのでアンバー公爵家で匿ってもらおうとしたら、
ディオがナディアを見初めちゃって獣人奴隷にした上で公爵夫人にするーとか盛り上がっちゃって、
今はナディアのために閃いた歌を勢いのままに譜面に書き付けて作詞作曲してるけど、
ちょっと本気っぽい気もするから何とか思い留まらせてね、よろしくねー」とのことだった。
(お父さま、何を考えているの……)
衝撃的な内容が多くてどれに驚けばいいのかわからない状態だったが、ひとまず一番最初に思ったのはそれだった。
(私、獣人に喧嘩売ってたのね…………)
次に思ったのはそのことで、けれど与えられた情報が多すぎて頭の中では上手く処理しきれず、やっぱりとりあえず一回卒倒しておいた。
ただの獣人奴隷ならともかく娶るつもりだなんて、ただでさえ一年前のお家騒動で立場が悪くなっているのに、そんなことをしたらアンバー公爵家の家名にさらに泥を塗ることになる。
父の結婚を散々反対してその幸せを邪魔してきた自覚があったシャルロットは、基本的には結婚は父の自由にしたらいいと思っていた。父が結婚したいと言い出したらどんな相手でも認めるつもりでいたのだが、まさか、なぜ彼女を選ぶのかと、シャルロットはかなり打ちのめされていた。
父は熱しやすく冷めやすい所があるので、積極的にナディアに関わるつもりのなかったシャルロットは、父の暴走を放っておいた。
シャルロットが何も言わずとも流石の父もわかっているはずだし、父が正気に戻るまでは待とうと思った。
そう決めたけれど、もやもやはする。なぜよりにもよって彼女なのだろうと、鬱々とした気分でシドの処刑の観覧に出席していたシャルロットは、シドが自らに巻き付く鎖を破壊し始めた所で、これは現実かな? と一瞬頭が真っ白になった。
シドの状態変化はかなり急だった。まばたきを何度かするくらいの短い時間で、鎖から完全に解放されたシドは自らを括り付けていた金属製の柱を引っこ抜き、そのままの勢いで放り投げて――――たまたまだとは思うが、よりにもよって貴賓席、それもシャルロットの真正面にものすごい勢いで飛んできた…………
『あ、これ死ぬな』とシャルロットは思った。
恐怖を感じる間もなく死を知覚した所で、しかし、シャルロットを庇うように藍色の隊服が飛び出してきて、彼女を守るように抱きしめてくれた。死が目前に迫っているのに、シャルロットは胸がキュンとした。
死なば諸共…… そう、本当は死が二人を分かつまで一緒にいると誓い合いたかった初恋の相手と、今シャルロットは抱き合っていた。もう彼は二度と自分には触れてくれないと思っていたのに、奇跡が起こった。死ぬのには最高の状況だと、こんな時でも乙女脳の持ち主であるシャルロットは思った。
シャルロットも死を覚悟して彼――――シャルロットの元婚約者である、ロレンツォ・バルト銃騎士隊副総隊長に抱きついた。
ロレンツォは八歳年上だが、シャルロットはアンバー公爵家直系唯一の姫として、誕生してすぐにバルト公爵家の次男である彼と婚約した。ロレンツォは旧王家にしばしば見られていた銀髪と薄紫色の瞳と、それから実は女性だと言われても通用しそうな麗しき美貌を放つ生粋の貴公子だ。
シャルロットがユトと不貞をしたことがロレンツォにバレてしまって、婚約は解消された――最初は婚約破棄すると言っていたがロレンツォは婚約解消にしてくれた――のだが、シャルロットにとっては今でも恋心が消えない大好きな初恋の人で、初彼だ。
ロレンツォが婚約解消からすぐに親戚筋の別のご令嬢と結婚していまい、シャルロットは失恋にむせび泣いたが、その後もシャルロットはロレンツォへの気持ちを完全に失ったわけではなかった。
ゼウスと結婚しようと思ったのも、ゼウスの中にロレンツォとの共通点を見出したからだった。
二人共に銃騎士で、シャルロットのお眼鏡にかなう中性的なすごい美人。真面目でひたむきで、物事には厳しい側面も持っている。シャルロットはロレンツォに生活面での注意を受けるたびにゾクゾクしていた。厳しいのに、ロレンツォに優しくされるとキュンとしてしまうのだ。
ゼウスも自分をゾクゾクさせてくれるはずだと期待していたが、彼は自分には全く靡かなかった。振り向いてほしいとシャルロットなりに頑張ったつもりだったが、全て空振りに終わった。的外れなことばかりしていたせいだと後々理解したが、好きだと言いながらも、ゼウスの中に別の人の姿を重ねていたことに、もしかしたらゼウス自身も気付いていたのかもしれない。
シャルロットの永遠の本命はゼウスではなくてロレンツォだったのだと思う。本当はロレンツォと結婚したかった。
(そんな相手と一緒に死ねるなら本望――――)
ドガァァァァァン! とものすごい音が鼓膜を震わせた。ついに死んだか! と思ったが、身体はどこも痛くない。
「シャル、離れて」
婚約破棄宣言直後からロレンツォはシャルロットのことを「アンバー公爵令嬢」とよそよそしい呼び方でしか呼んでくれなくなったが、彼に久しぶりに愛称で呼ばれて、シャルロットはここは天国に違いないと思った。
「離れたくありませんわ! 私は離れません!」
「……シャル、後ろ見て…………」
(後ろって何? 私はロレンツォしか視界に入れたくないわ!)
目をハート形にしていたシャルロットは、後ろから伸びてきた手にむんずと身体を掴まれて、力任せにロレンツォから引き剥がされた。
(何をするのよ! もっと私のロレンを感じていたかったのに!)
振り向いたシャルロットは、凍り付いた。
自分を腕の中に抱き上げて極寒を感じさせるほどの冷たい目でこちらを見下ろしているのは、最愛になったはずの夫ユトだった。
シャルロットはしまったと思った。結婚してからも、ユトはシャルロットを心の底から愛して支えてくれている良き夫なのだが、一部では下剋上されてしまっていて、ユトはシャルロットの浮気を絶対に許さなくなった。
父ディオンは「地獄の王」という役をやったことがあるが、ほんの少しの浮気心でさえも嫉妬して目くじらを立てている今のユトこそが、真の「地獄の王」ではないかと思った。