18 殺人依頼
R15
朝一の公爵が去った後、ナディアは部屋に用意されたアンバー公爵家の料理人作の肉料理に舌鼓を打ちながら朝食を頂き、その後は部屋に備え付けのお風呂も頂くことにした。
昨日は牢屋で眠りに就いたのでもちろん入浴なんてしていない。ゼウスと接触した匂いも一度身体を洗った程度では取れないのだけど、彼の残り香を嗅いでいると切なくなってしまうので、入浴して身体を洗い少しでもさっぱりした気分になりたかった。
ヴィネットにお風呂に入りたいと言うと、「承知しました」と言ってすぐに浴室の準備に取り掛かってくれた。ヴィネットは内心ではナディアに思う所があるのかもしれないが、キビキビとよく働いてくれた。
ただ驚いたのは、服を脱いで浴室に入ると、なぜか服を着たままのヴィネットも一緒に浴室に入ってきたことだった。
「ヴィネットも一緒に入る?」
「いいえ、私はナディア様の入浴の介添えでございます」
男の護衛たちは部屋の外で待機するとのことで、部屋の中ではヴィネットと二人きりだった。ナディアは彼女のことを最初は「ヴィネットさん」と呼んでいたのだが、「使用人でございますので敬語はいりませんし呼び捨てでお呼びください」と言われてしまい、こっちは獣人だがいいのかなと思いつつ、促されるまま丁寧語はやめて名前も呼び捨てで呼んでいた。
ヴィネットは最初から変わらず、ナディアには様付けと敬語なので、あまり踏み込んでくるなというような無言の距離感は感じる。やっぱり恋敵認定かな、とナディアは心の中でちょっと不安になっていた。
そういえば、貴族は入浴中にも使用人のお世話を受ける、と聞いたことがあったのを思い出す。
ナディアは自分でできると断ろうとしたが、こちらです、と浴室の中にあった凝った意匠の椅子に座らされてしまい、介添えが始まってしまった。
ヴィネットは石鹸を泡立てると、ナディアの身体を磨いていく。他人にされるのがとてもこそばゆかったが、何だかお姫様になったような気分にもなれた。
全身を隈なく洗われて温かいお湯に浸かると、ナディアは命の洗濯とばかりに完全に緊張から解き放たれて、ほへー、としていた。
しかしそんな最中、平穏をぶち破るその匂いに気付いてしまう。
そこはかとなく香る、レモングラスの香水の匂いに……
気付いたのはナディアだけではなくヴィネットも同様らしかった。彼女は浴室の出入り口を見つめながら、眉根を寄せている。
外の護衛たちは一体何をしているのだろう。当主に対してはスカスカの防御力のようだ。
「ナディア様、これを」
スカートを捲り上げたヴィネットは、太もものガーターホルダーから取り出した拳銃をナディアに差し出した。
「身の危険を感じたらためらわずに撃ち抜いて殺してください」
「いやそれは無理……」
入浴で寛いでいた気分が一瞬で弾け飛んだ。
(それまで模範的な優秀メイドという感じだったのに、殺害を指示するとは一体どうした!)
「そんなことをしたら、私は公爵様殺しの獣人として処刑待ったなしだわ」
「これは私の銃です。犯人は私だということにして構いませんので。私ではあの方は殺せないのです」
ナディアは首を横に振り続けている。
「…………わかりました。無茶なお願いをして申し訳ありませんでした。今言ったことはお忘れください」
ヴィネットはそう言って拳銃をガーターホルダーへと戻した。
「ナディア様はここにいてください。あの方を追い払って参りますので」
ナディアだってすっぽんぽんで殿方の前へ出たくはない。湯船に深めに身を沈めたまま浴室の外へ出て行くヴィネットを見送った。
『……旦那様、なぜ服を脱いでいらっしゃるのですか?』
磨り硝子の向こうの脱衣室の声が聞こえてきて、広い浴室に反響する。
『顔を見に来たらちょうど入浴中だったから、せっかくなので我が花嫁の背中でも流して交流を深めようと思ってね』
オリオンもそうだったが、男性とは風呂場に突撃したい生き物なのだろうかと思った。
『私がお世話をさせていただいたので不要です。お帰りください』
ヴィネットの声は先程より少し冷淡であるようにも聞こえるが――――
『もー、ヴィネちゃんったらそんな顔しないの。そうだ、良かったら三人で一緒に入る?』
その瞬間、パシィン! と、跳ねるような激しい音が響き、まさか殺ってしまったのだろうかとナディアは心配になった。
それきり声は聞こえないが、扉が閉じているために匂いが探りにくく、向こうがどうなっているのかわからない。ナディアは逡巡した後に、浴室内に持ち込まれていたタオルを身体に巻き付けると、脱衣室に続く扉を開けた。
公爵は生きていた。上半身のみ裸で筋肉質だが色白な美肌を晒している。
首元に黒い鎖のネックレスをしていて、そのペンダントトップには、黒一色の材質で出来ている両開きの扉を模した飾りが付いていた。
対してこちらに背を向けているヴィネットは手に鞭を握りしめている。公爵の白い肌に叩かれた赤い痕はないので、どうやらヴィネットが威嚇のために鞭で床を激しく打ち付けたらしかった。
ナディアの出現にヴィネットが振り返ったが、その顔は、今までの淡々と職務を遂行する感情の見えない使用人のものではなくて、今にも泣き出しそうに見えた。
「ぐうっ……!」
いきなり公爵が苦しみ出した。両手で顔の下半分を抑えてその場に蹲る。公爵の芸術的なほどに白く美しい指の隙間から赤いものが溢れてきた。
(え、吐血?)
「ディオ!」
慌てたのはヴィネットも同じだった。「旦那様」ではなくて「ディオ」と愛称で呼びながら、それまでの使用人然とした鉄の仮面を脱ぎ捨てて、必死の形相で公爵を抱き起こす。
「だ、大丈夫ですか?」
ナディアもディオンの側に寄ったが、半裸のナディアを見る公爵の目はなぜか血走っていた。
「お、おっ……」
ディオンはぷるぷると震える片手を伸ばして、何かを言いたそうにしながらナディアを指差している。片手を外したことでディオンの赤く染まる口元が見えたが――――吐血じゃなくて鼻血だった。
「おっ……ぱい…………」
ディオンは貴公子があまり口にしない方がいい言葉を苦しそうに呟き、タオルからはみ出たナディアのソレの一部を、震える指先でツンツンしようとしたが――――
「ぐぅぉぉっ!」
いきなりディオンが苦悶の声を挙げた。ナディアに伸ばしていたディオンの手をヴィネットが掴んで、力任せにぎゅううっと握り締めたからだった。
ヴィネットはまた鉄の表情に戻っていた。少しだけ冷ややかさが増している気がする。
「こ、公爵様の指の骨が軋んでる! お、折れちゃうわ!」
声をかけてもヴィネットは変わらず手に力を込め続けているので、ナディアはやめさせようと手を伸ばしたが――――
「駄目!」
「ぐおっ!」
ヴィネットは叫ぶと今度はナディアから遠ざけるようにディオンの身体を掻き抱いた。しかし、ディオンの身体からは軽くゴキゴキと嫌な音がして、彼は今にも白目を剥きそうだった。
「触らないで!」
ナディアはヴィネットのその声にハッとなった。
「ご、ごめんね」
強い拒絶の勢いに呑まれて謝り、ナディアはとりあえず二人から距離を取った。大切にしたいのか殺したいのか不明だが、とにかく、ヴィネットにとってディオンはナディアには触らせたくないくらいに特別な存在だと理解した。
しかしながら、鼻血をだらだらと流しながらヴィネットに抱き潰されているディオンの視線は、ナディアに釘付けだった。
「まさか…… 百戦練磨の、この…… 僕が………… 流石は、獣人……… ウルト、ラ、セクシーダイナ……マイ…………ツ…………」
ディオンはまるで今際の際に最期の言葉を残すが如く何事かを呟いていたが、遂にはガクリと首を落として気絶した。
「ディオ! ディオーっ!」
真っ白に燃え尽きて死にましたみたいな状態のディオンに気付いたヴィネットが、彼の愛称を叫びながら全身をカクカクと揺さぶっている。しかしその度に鼻血がどばどば出ているので、あまり揺さぶらない方が…… とナディアは思った。
慌てているヴィネットはディオンを「旦那様」とは呼ばない。やはり二人は秘密の恋人同士ではないかとナディアは思った。昨日も一昨日もその前も、一緒に夜を過ごしたらしき匂いが濃いので。
「どうされましたか!」
脱衣室の外から護衛たちの声がする。すぐにでも中に入ってきそうな雰囲気だったので、今自分が身体にタオルを巻いただけの姿だったことを思い出したナディアは、慌てて浴室内に戻った。