12 脱獄?
ナディア視点→ジュリアス視点→ナディア視点
ジュリアスがレインに命じて打たせた媚薬の中和剤が効いてきたおかげで、身の内から湧き上がるどうしようもない疼きは段々と収まってきた。
レインは最初、中和剤を打つことを渋っていたが、ジュリアスが少し怖い顔になって「これは上官命令だ」と有無を言わせない感じで言うと、レインは一切の反論を打ち切り、命じられるがまま二人に中和剤を打ち込んでいた。
過激さが垣間見えるレインは不服があれば命令なんて無視するような性格だとナディアは思っていたが、予想に反して上役からの命令には忠実であるらしく、そこは意外に思った。
レインは優しいというか面倒見が良い部分もあるようで、ゼウスの顔面や髪を持っていたハンカチで拭っていた。しかしその間もゼウスは怒っている。
「先輩、絶交です。二度と俺に関わらないでください」
そう言いながらも、ゼウスは成されるがままレインに顔を拭かれていて、その行為自体を嫌がる素振りはない。
「絶交っていうのは普通友情に使うものだろ。俺たちの間にある義兄弟の絆には当てはまらない」
「いつ義兄弟になったんですか!」
ゼウスの怒りをレインは軽くいなしてしまい、縁を切るなんて展開にはさせない。
ゼウスは怒ってはいるが、レインを心の底から完全に拒否しているような感じでもない。ゼウスにとってもレインと離れることは本意ではないのだろうと何となく思った。
首都にいた頃、二人が一緒にいる場面を見たのは数えるほどだが、ナディアが思う以上に二人はとても仲が良いようだ。
「仕方ないだろう。アーク隊長のご指名なんだからな。こうでもしなければナディアは明日処刑されてしまうんだぞ? それでいいのか?」
「……レイン先輩が引き取ればいいんですよ」
ナディアはゼウスのその言葉に、頭から巨石を落とされたかのような衝撃を受けた。
(ゼウスが、レイン先輩に抱かれて番になれって言ってる…… ゼウスは私が別の人とそうなってもいいんだ…………)
意図せず瞳が潤んでしまって、ナディアは先程からこちらを一切見ようとしないゼウスを、真っ青な表情でじっと見つめる。
(これはゼウスへの二度目の失恋かな……)
胸を深い悲しみだけが支配して打ちひしがれたようになっていたナディアは、その後ゼウスが「先輩なら俺よりも彼女を大事にできると思います」と言った言葉は全く耳に届いていなかった。
「悪いがそれは却下だ」
「なら俺にも無理強いしないでください。もう失礼します」
鎖から解放されたゼウスは牢から出てそのまま行ってしまいそうになる。
「ゼウス! 待て! このままだと本当にナディアが処刑されかねないぞ! それでいいのか!」
レインが大きな声を出してゼウスを呼び止めたので、ナディアはハッとなり戻った聴覚と共に彼らを見つめた。
ナディアは見た。
ゼウスはやはりナディアには視線を向けないままだが、レインに向き直った表情には全く何の感情も乗せないままで、こう言った。
「構いませんよ」
ナディアは大きく目を見開く。
「何言ってるんだ! ずっと探していたんだろ! 彼女が死んでもいいのか?」
「俺が彼女を探していたのは、殺すためです。獣人として処刑されるのなら、それでいいです」
ナディアはジュリアスの上着を羽織ったまま寝台に座っていたが、全身から力が抜けて横にふらりと倒れそうになるのを、そばにいたジュリアスが支える。
「ゼウス!」
レインが呼び止めるが、ゼウスは靴音を響かせて離れていく。
「全くあいつは……」
レインはため息を吐き出した。
「ジュリアス、もしかしたらナディアのことはシリウスに任せた方がいいかもしれないな」
「そうするよ。何とかする」
「ゼウス!」
レインはゼウスを追いかけて行ってしまった
******
腕の中のナディアは、絶望しきった表情を見せていて、暗く沈んでいる。好きな男に拒絶されて、死んでも構わないと言われたのだから、当たり前だろう。
しかし彼女は落ち込んではいるものの涙は溢さない。一年前とは違う。二人は既に別れているわけなのだから。
あの頃は、ナディアの心はゼウスばかりで占められていたが、今は違う。入り込める隙間はある。
ゼウスが素直にならない限り、二人の復縁は絶望的だろう。
振られてしまったナディアが可哀想だとは思うが、しかしジュリアスは、ゼウスの先程の言葉が本心ではないとナディアに伝えて、彼女を落ち込みから回復させるような真似をするつもりは微塵もなかった。
大事なシリウスのためには、二人の別れは不可逆的で決定的である方がいい。ナディアの気持ちが再びゼウスに傾くようなことを、ジュリアスが言うはずがなかった。
この先彼らが交わる道はない。それが理想。
正直に言えば、ジュリアスは愛する弟が最愛の女性を手に入れるためならば、自分は悪魔に魂を売っても構わないと思っている。
だから真実を告げる代わりに、ジュリアスはこう言った。
「大丈夫だ。明日君を処刑になんてさせない。必ず回避する。
シー…… シリウスが、君のオリオンが、必ず君を迎えに来るから、希望を捨てずに待っていて」
******
シャッ、とどこからか音がして、ナディアはゆっくりと瞼を開けた。地下にいたはずなのに周囲は明るい。
(もう朝?)
ナディアは自分が、無機質な壁と鉄柵に囲まれた冷たい印象の牢屋ではなく、どこか知らない部屋の寝台に寝ていたことに気付く。
寝台は牢屋の硬い感触ものとは全然違い、ふかふかで、しかも人が五人くらいは同時に寝そべられそうなほどに大きい。掛かっていた布団も柔らかくて肌触りも最高で、質が良いとすぐにわかるものだった。
部屋の中に誰かいる。
窓辺にメイド服を着た十代後半くらいの知らない少女が立っていた。ナディアが目覚めるきっかけになった音は、その小柄な少女が窓のカーテンを開けた音らしかった。
少女はあまり見ない薄桃色の髪を後ろできっちりまとめていた。眼の色もあまり見ない薄桃色をしていて、顔はナディアよりも美人だ。
ナディアは彼女をじーっと見つめてしまう。
なぜならば、彼女から手練れ感をひしひしと感じてしまったからだ。
それから火薬の匂いがして、たぶんスカートの中に銃を隠し持っているようだった。
なぜメイドさんが武器を持っているのか――――
(この子強いわ――――)
彼女を見ていると、肌の下がざわつくよう妙な感覚がする。
(メイドに擬態したハンターとかだったらどうしよう)
少女はナディアが目覚めたことに気付くと、声をかけてきた。
「おはようございます。体調はどうですか?」
「えーと…… 特には悪くないです」
本当は、あなた誰? と聞きたかったが、寝起きで頭が半分ぼーっとしていたせいか、ナディアは聞かれたことに素直に答えた。
「それはようございました。ただ今若旦那様を呼んで参りますので、お待ちください」
(若旦那様?)
首を傾げるナディアに対し、少女は礼をして退出していく。その所作は完璧だった。
少女が部屋から出ていってしまい、ナディアは所在なくきょろきょろと室内を見回した。
(何だかすごいお金持ちの家みたいな部屋にいるけど、ここは一体どこなの?)
自分は獣人用の牢屋にいたはずだが、昨日はゼウスと再会した余波で寝る前の記憶が少しおぼろげだった。
確かゼウスがいなくなった後に、オリオンの兄ジュリアスが、「ナディアの処刑は回避させる」と言っていたから、ジュリアスが牢屋から出して助けてくれたのだろうか? しかしそれにしたって、何でこんな豪華な部屋で寝ていたのか、状況がさっぱり掴めない。
ムムム、と腕組みしながら頭に疑問符を浮かべて考え込んでいると、扉が控えめに叩かれる音がした。
「はい……」
返事をすると、扉が開く。
現れたのは、黒髪でがっしりとした体躯の美丈夫だった。
男はあまり目にしたことのない銀色の大きな瞳が特徴的で、どことなく不思議な印象があった。顔の造形自体は整っていて、堂々とした佇まいからは物語によく出てくる軍事大国の皇太子みたいな雰囲気がある。
見たことのない人だが、しかしナディアは、彼の匂いには覚えがあった。
「……ユトさん?」