7 幸せな奴隷
地下室の扉が開く音がして、ヴィクトリア姉様と共にリビングでお茶をしていたナディアは、ハッと顔を上げた。
いつもならそこから現れるのは、姉様に会いに来たレイン先輩しかいない。でも今日は違う。
「ゼウス!」
ナディアはカップが倒れる勢いで立ち上がり、現れた最愛の男の名を叫んだ。
「ナディア!」
彼も名前を呼び返してくれた。ずっと求めていた愛しい人の声を聞き、匂いを嗅いで、胸を最上の喜びが支配した。
ナディアが足枷の鎖を鳴らしながらゼウスの元へ急ぐと、ゼウスが階段を駆け下りてきて、ナディアを抱きしめてくれた。
「ナディア! ごめん……! ずっとそばにいるって約束したのに、一人にしてしまった………… どうか許してほしい…………」
「大丈夫よ。きっと戻ってくるって信じてたから、ゼウスに会えて嬉しい」
ナディアは泣いているゼウスを抱きしめ返した。ナディアも泣きながら、久しぶりに会えたことが嬉しすぎて全力で抱きついた。
ゼウスは地下室に来なかった理由を「禁じられているから」と言って話すことはなかった。
ナディアはノエルから事情を聞いていたので、しつこく理由を聞くこともなかったし、なぜ会いに来なかったのかと責めることもしなかった。
ゼウスなりに消化する時間が必要だったのだろうと思った。
ゼウスはナディアを放置していた自覚はあったようで、会いに来なかった理由を話せないことも相まって、ものすごくすまなそうな顔で詫びていた。
「ゼウスがどうしているのかずっと心配だったけど、また会えて良かった」
ナディアが安堵の表情で微笑み、責める態度を一切見せないことに、ゼウスはいたく感動した様子だった。
「ナディア! 君はなんて心の綺麗な人なんだ! 俺を信じてくれてありがとう!」
ゼウスはそう叫びながらナディアを再度抱きしめて、そばにいるヴィクトリア姉様が見ている前でも気にせず、何度も何度も接吻を繰り返していた。ちょっと恥ずかしかった。
ゼウスは、そばにいると言ったのにそうしなかったことを心から悔いて申し訳なく思っている様子だったから、ナディアはそれだけで充分だった。
離れ離れの後、まるで雪解けのように、ゼウスは獣人であるナディアを丸ごと受け入れてくれた。それから、『所有の証』であるはずの足枷が外されて、代わりに、互いへの永遠の愛と所有を誓った指輪が二人の薬指には揃って嵌っていた。
「俺にとってもナディアは、唯一無二の『番』みたいなものだから」
ゼウスがナディアの指に初めて指輪を付けてくれた時のことは、嬉しすぎて一生忘れない。
ナディアは地下室から出られるようになった。レイン先輩の家で四人で暮らしていることに変わりはないが、監禁は解かれ、自由に外に出て買い物をしたり所用を済ませたりしている。
ナディアはレイン先輩の家の近所の人たちにはゼウスの妻だと思われていて、「病弱なレインの妻」を支えるために、四人で共同生活をしている、という話にいつの間にかなっていた。そうなるように仕向けたのは、病弱な妻の夫を装う男だろうけれど。
ナディアは以前首都にいた頃のように、再び人間に擬態して暮らしていた。と言っても、変装したりなど特別なことはしていない。人間社会ではあまりにも平々凡々なよくある顔な為、誰もナディアが獣人だと気付かないだけである。
新聞にナディアの処刑記事が出た時に写真も共に載せられてしまったはずだが、人々の記憶にはほとんど残っていなかった。
以前は、働いていた古書店の商店街の人たちに疑われたこともあったが、たまに街で昔の知り合いとすれ違うような時があっても、全く注目されない。自分の顔はそれほどよくあるというか、印象が薄い顔のようだった。ゼウスはそれでも事あるごとにナディアを可愛い可愛いと言うので、この人の視力は大丈夫なんだろうかとたまに思う。
生まれた里では獣人なのに美人ではなさすぎて気落ちすることも多々あったが、人間社会に潜伏するには最高の容姿だと気付き、そこまで悪いことではなかったのだなと今は思う。
大変なのはヴィクトリア姉様だ。ナディアは外に出してもらえるようになったが、レイン先輩が許さずに姉様の監禁は続行中だ。外に出られないのがあまりにも不憫で、ゼウスたちと共にレイン先輩を説得している最中だ。
レイン先輩曰く、外に全く出されずに匿われている女性がいるようで怪しいと、実はナディアではなくてヴィクトリア姉様の方で数度通報があったらしい。正式に許可の下りている獣人奴隷であるし、二番隊の力で白だということにして揉み消して、多少の情報操作はしているとの話だった。
二番隊、というかレイン先輩おそろしや。
貴族ならともかく、銃騎士とはいえ平民が獣人奴隷を所持していると大っぴらにすると首都に住めなくなるからとの話だった。獣人奴隷制度は施行されてまだ日も浅く、白い目で見る者たちも多いらしい。
本日は「ヴィクトリアを外に出そう計画」の第一弾として、ノエルに魔法で姉様の姿を別人に変えてもらって、エリミナの邸宅の庭にあるお花を見ながらお茶会をしようという話になっていた。
監禁を解かれて以降、ナディアはエリミナと再会することができた。別れた時はこんなに長い間離れ離れになるとは思わなかったから、再会した時にはお互いに号泣した。ナディアは初めてできた人間の親友とまた交流を持てるようになれて、とても幸せだった。
今日のお茶会には久しぶりに会うリンドも来てくれて、娘婿のゴードンとあーだこーだ言いながらチェスを指しているのを、娘であるエリミナの母に諌められていた。
それからもちろん、アーヴァインもいる。
アーヴァインは最初に再会した時に平身低頭謝られた。友達に戻りたいと言われて、アーヴァインが獣人としてのナディアを認めてくれたようでとても嬉しかった。
ヴィクトリア姉様はレイン先輩と同じ黒髪黒眼の、どこにでもいそうな普通の娘の姿に変わっていた。レイン先輩は、姉様が全く別人の姿にならない限り、外に出すことを絶対に認めなかった。
姉様は地下室の花壇の花だけではなく、広い庭園の色とりどりの花々を眺めてとても幸せそうだ。隣のレイン先輩もそんな姉様の姿を見ながら幸せそうに微笑んでいるから、ノエルの魔法に頼る形にはなるが、こういう機会が増えていけばいいなと思った。
「良かったですね」
ヴィクトリア姉様を見ていると声をかけられて、柔らかくも神々しい美しさで微笑んでいるノエルと目が合った。
ノエルは最初に首都に潜伏していた頃からナディアのことを気にかけてくれて、本当に良い義兄だと思う。
ただ、ノエルを前にすると、どうしても彼のことを思い出してしまう。ナディアの最愛はゼウスだから、今更彼に思いがあるとか、もしかしたらなんて考えはないけれど、彼にはとても酷いことをしてしまった。
『兄にはナディアの記憶の一切がありません。魔法であなたに関する記憶だけを消し去りました』
ナディアはノエルが突然地下室に現れた時のことを思い出していた。
『記憶操作の魔法は本来は禁断魔法の類であり、術者に多大なる跳ね返りが来るので使用は控えるべきなのですが、家の者にその反動をあまり受けずに過去の記憶を改竄できる適性のある者がいるので、兄に魔法を施しました。
ナディアが番を得たことを知った兄の嘆きは凄まじく、見ていられないくらいで………… そのままでは命を断ってしまいかねなかったので、そのような手段を取るしかありませんでした。
魔法は、術者の体調などによっては綻びが出てしまうこともあります。兄がナディアを思い出すことのないように、もう二度と会わないようにしていただけたら…………』
ノエルにそう言われたナディアは、その通りにするつもりだった。
ところが、オリオンはレイン先輩と仲が良いらしく、ナディアの里に潜伏していた時に酷い目に遭っていたヴィクトリア姉様のことも気にかけていたようで、時々遊びにやって来る。
前もって来ることがわかっていれば外に出て遭遇を回避できるが、一度夜に前触れ無く来たことがあった。
ナディアは部屋に隠れて、もしもの時はと予めノエルに渡されていた、魔法の宿る札を使って存在感を消した。そのくらいしなければ、ただ部屋の奥に隠れただけではオリオンは気付いてしまう。ノエルの準備の良さに助けられた。
その時はゼウスが仕事でいない夜だった。朗らかな彼の話し声を聞きながら、ナディアは彼の前に出て行くことのできないその状況を一人で受け入れていた。
オリオンに対してもっと何か別の方法があったのではないかという後悔は、自分が一生抱えていくべきことだ。
参加者にノエルがいるので当然アテナもいる。知った時はとてもびっくりしたが、二人は結婚していて、アテナのお腹には二人の新しい命が宿っていた。
「ディアちゃんもいつか、ね」
ナディアは本名をもじったそんな呼び名で生活をしていた。偽名ではなくて愛称で呼ばれている感じがして、ナディアはその呼ばれ方が好きだった。
アテナの膨らんできたお腹を撫でさせてもらっている最中、ナディアはもう一人の義姉に意味深長に微笑まれた。
ゼウスの子供を産む。獣人奴隷の身の上である自分にもいつかそんな未来が訪れればいいなと思いながら、ナディアは大切な人たちに囲まれて、今ここにある幸せに感謝した。
【ゼウスアナザー(&レインアナザー)エンド 了】
お読みくださりありがとうございました。
次話からはゼウスが「A2.番にならない」を選択した場合の本編の続きです。




