3 子殺し 1
侯爵夫人レベッカ視点
それは日付が変わり、獣人王シドの処刑が予定されている日の夜の出来事――――
「こんばんは、レベッカ・ライト侯爵夫人。
月の綺麗な夜ですね」
聞いただけで心が洗われるような美しい少年の声がその場に響き渡るが、後ろめたいことがあったレベッカはかなり驚いてしまって、ビクリと大きく身体を震わせた。
「セ、セシル様……」
振り返り、そこにいた人物の名を呼ぶ。少年――セシルはにっこりと、完璧な微笑みをレベッカに向けた。
レベッカは次期宗主配セシルと顔見知りではあるもののそこまで親しくはない。彼女にとっては、子供であっても美しすぎる男は苦手だったから――――
セシルとはたまに会う社交場での表面的な付き合いのみである。
本来は家名で呼ぶべきなのかもしれないが、ブラッドレイ家には有名人が多く、名字だけでは誰を指しているのかわからなくなるために、本人の人気も相まって社交界では名前で呼ぶことが浸透していた。
現状ではセシルがまだ平民である気安さもあって、多くの貴族たちが彼を名前で呼んでいる。
レベッカは、はっきり言えば狼狽えてしまっていた。ここは銃騎士隊本部の中でも奥まった所にある、獣人用の留置場にほど近い場所だ。
本部敷地内は一般人でも入ることはできるが、留置場付近は立入禁止だ。危険を冒してまで敢えて恐ろしい獣人が捕らえられているこの場所に近付きたがる者もいない。
まして今は、不気味にも思えるほどに丸く膨らみ橙色に鈍く輝く月が、西の空に爛々と浮かんでいる深夜である。こんな夜更けにカンテラと何かを入れた手提げカゴを持った女が一人で立入禁止区域を歩いているなんて、本部にて夜間勤務中の銃騎士隊員が気付けば確実に職務質問されること間違いなしだ。
最も、レベッカは知らないが、彼女が敷地内に侵入した際に通った裏門の見張りが、その時丁度良く席を外すように仕向けて、彼女がここまで安々と入り込めるように仕組んだのはセシルだが。
「わあー、何だか美味しそうな匂いがしますね! 差し入れですか? 僕も食べてみたいです! 育ち盛りすぎて、僕は夜でもよくお腹が空くんですよー」
「あ、だ、駄目ですっ!」
今一番触れられたくない手提げカゴの中身についてセシルが言及する。ガシリとカゴの取っ手部分を掴まれてしまって、レベッカは自分の心臓こそが冷たい手に掴まれて握り潰される直前のように感じた。
そうでなくてもいきなり女性の手の中にある荷物を掴むとは、次期宗主配らしからぬ節度を欠いた行動だ。普段のセシルだったら絶対にしないように思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
レベッカはカンテラを放り出して両手でカゴの取手を掴む。一瞬だけ引っ張り合いのようになったが、セシルはすぐにカゴから手を離した。
けれど奪われてなるとものかと必死だったレベッカは力を込めたままだったので、結果としてカゴは彼女の手からスッパ抜けて空中を飛び、レベッカの背後の地面に落ちた。
パリンと音がして中の皿が割れ、入っていた肉料理も皿の蓋もその上にかかっていた白いレースのハンカチも――――何もかもが地面の上にぶち撒けられ、肉料理のソースにまみれてぐちゃぐちゃになった。
だが、ぐちゃぐちゃなのはレベッカの頭の中もそうだった。
「ああっ、ご、ごめんなさい! せっかくの美味しそうな肉料理だったのに!」
申し訳なさそうに謝りながら、肉料理を片付けるべく落ちたカゴに近付こうとするセシルを阻むように、レベッカがその前に立ち塞がる。
「駄目です! 触ってはいけません! 次期宗主配であるあなた様の御身に何かあったら、私は、いえ、私だけではなく私の家族全員が、クラウス様に殺されかねません!」
「そうですね。毒入り肉料理ですもんね」
何でもないことのようにセシルはさらりと言い放った。口調にはそれまでのしおらしさは皆く含まれておらず、まるで今までの言動は全て演技でしたとでも言外に語っているかのようだった。
レベッカはノエルの指摘に軽く悲鳴を上げて座り込み、ガタガタと震え始めた。
「お許しを……! どうかお許しください……!」
許しを請うレベッカの精神状態は限界に近かった。
あの子が捕まったことを知ったのは偶然だった。
レベッカの夫ライト侯爵は国防大臣を務めており、公的な機関である銃騎士隊を所管する部所の長だ。そのために銃騎士隊で何か動きがあれば夫の元にも報告が上がってくるし、人間ではなくて獣人の処刑に許可を出すのも夫の仕事だった。
昨夜――といってもつい数時間ほど前まで――レベッカは夫と共に夫婦の寝室で就寝中であったが、急ぎ決済が必要な案件があるとのことで、夫が家令に起こされた際に彼女も目が覚めてしまった
夫は寝室で渡された書類――それは獣人の処刑執行許可書だった――を読みサインをしていたが、そこに書かれていた獣人の名前を見たレベッカは、危うく悲鳴を上げそうになるのを寸前でどうにか堪えた。
ナディア――――――
それはレベッカが獣人の里で産み、捨ててきた我が子の名前だった。